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【東京新聞フォーラム】

よみがえる古代の大和シリーズ 天武・持統朝の宮殿遺跡〜橿考研80年の成果〜

飛鳥宮跡についてのパネルディスカッションや基調講演が行われた東京新聞フォーラム「天武・持統朝の宮殿遺跡〜橿考研80年の成果〜」=いずれも東京都千代田区の日本プレスセンターで

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 東京新聞と奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所主催の東京新聞フォーラム「よみがえる古代の大和シリーズ 天武・持統朝の宮殿遺跡〜橿考研(かしこうけん)80年の成果〜」が九月二十九日、東京都千代田区の日本プレスセンターで開かれた。第一部では、かつて橿考研で研究に当たり、現在は国立歴史民俗博物館教授・副館長の林部均さんが「古代宮都と飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)−飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の歴史的位置」と題して基調講演。第二部では橿考研主任研究員の鈴木一議さんが「天武・持統が愛(め)でた庭園−飛鳥京跡苑池(えんち)」、橿考研付属博物館指導学芸員の鶴見泰寿さんが「飛鳥宮の木簡」のテーマでそれぞれ報告した。続いて三人によるパネルディスカッションが行われ、三百人が千三百数十年前の飛鳥の地に思いを巡らせながら聴講した。

◆主催者あいさつ 東京新聞代表・水野和伸

 毎年、橿原考古学研究所と共催で東京新聞フォーラムを開いてきた。きょうもほぼ満席だが、新聞紙面で参加者を募集すると、あっという間に定員をオーバーした。日本古代史への関心が非常に強いことを感じる。ぜひお楽しみください。

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◆基調講演 林部均さん 新旧混在の宮殿、その理由は?

 飛鳥宮跡は、奈良県明日香村岡にある宮殿遺跡である。一九五九年からの発掘調査で、ほぼ同じ場所で、大まかに三時期の遺構の変遷があることが明らかとなった。飛鳥時代の舒明(じょめい)・皇極(こうぎょく)・斉明(皇極天皇の重祚(ちょうそ))・天智・天武・持統の五人の天皇(大王(おおきみ))の四つの王宮である。飛鳥岡本宮(おかもとのみや)(六三〇年〜)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)(六四三年〜)、後(のちの)飛鳥岡本宮(六五六年〜)、飛鳥浄御原宮(六七二年〜)である。まさに古代の国家形成にかかわる王宮が飛鳥宮跡にあることがわかった。

 その様子が比較的によく分かる飛鳥浄御原宮から、天武天皇・持統天皇の時代を考えてみたい。飛鳥浄御原宮は、飛鳥宮跡で、最も上層でみつかる飛鳥宮跡III−B期が該当する。内郭とエビノコ郭、外郭から構成される。内郭は内裏(御所)に相当し天皇が居住した。エビノコ郭は「大極殿(だいごくでん)」にあたる。

 外郭には、さまざまな役所があったと推定される。III−B期は、内郭は斉明天皇・天智天皇の後飛鳥岡本宮(飛鳥宮跡III−A期)のものをそのまま継承し、東南に新たにエビノコ郭を造営していた。飛鳥浄御原宮は、最後の大王ともいえる斉明天皇・天智天皇の王宮を使用し、天皇位を象徴する「大極殿」という新しい殿舎のみを付加したものであった。

 このように古い要素と新しい要素が混在するのが、飛鳥宮跡III−B期の特徴であり、天武天皇・持統天皇の新しい国づくりの様子が見事に反映されている。

 どうして、天武天皇は新しい王宮をつくらなかったのだろうか。天武天皇は、天智天皇の子である大友皇子と王位継承を争った壬申(じんしん)の乱(六七二年)で勝ち抜き、即位した。天武天皇は「万葉集」などで「大君は神にしませば」と、絶対的な権力を持った天皇のイメージが強い。しかし、王位継承の正統性や権威を示す王宮は、母の斉明天皇、兄の天智天皇の王宮をそのまま継承しただけだった。天武天皇は本当に絶対的な権力を持った天皇なのだろうか。

飛鳥浄御原宮のエビノコ郭に造営されたエビノコ大殿の復元模型=奈良県立橿原考古学研究所付属博物館所蔵

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 さらに、飛鳥宮跡の発掘調査、研究の成果をもとに王宮・王都の変遷を検討すると、それは単純な発展だけではなかったことが分かる。

 孝徳天皇が大化改新の政治改革を行った難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)(六五二年〜)、すなわち前期難波宮から斉明天皇の後飛鳥岡本宮では、前者が内裏と大極殿に相当する巨大な正殿と朝庭・朝堂が南北に配列された巨大な王宮であるにもかかわらず後者では、内裏は継承されるが、朝堂の空間が消滅する。

 朝堂の空間は、藤原宮で復活するので、前期難波宮の次の王宮である後飛鳥岡本宮には継承されなかったとみるほかない。王宮・王都は単純に発展する方向だけで展開したのではなかった。逆行することもあった。このことから、古代の国家形成も単純に進んだのではなく、さまざまな紆余(うよ)曲折があったと考える。

 飛鳥宮の発掘調査で、古代国家が整えられていく様子が、おぼろげながらも明らかとなる。政治改革の様子にも光が当てられる。考古学の古代史に果たす役割は大きい。

<はやしべ・ひとし> 1960年、大阪府生まれ。関西大文学部史学地理学科卒業。83年、奈良県立橿原考古学研究所に就職、飛鳥宮、藤原京、平城京の発掘調査を担当。2001年に博士(文学)。10年から国立歴史民俗博物館研究部准教授、教授を経て、17年から現職。

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◆報告 鈴木一議さん 謎の石造物から苑池の詳細へ迫る

 一九一六(大正五)年、現在の奈良県明日香村岡の飛鳥川東岸で、二つの石造物が掘り出された。石造物には溝や孔(あな)が彫られており、その形状や出土状況から、導水施設であった可能性が指摘されていた。しかし、いつの時代のどのような遺構に伴うものなのかは長らく謎であった。

 一九九九(平成十一)年、石造物の性格を明らかにするために、橿原考古学研究所が石造物出土地点で発掘調査を実施した。その結果、飛鳥時代の大規模な苑池遺構を検出し、石造物が苑池に伴う装飾的な流水施設であることも判明した。

 その後、数次の発掘調査で、飛鳥京跡苑池は南北に二つの池が並び、北池からは北へ水路が延びていたことがわかり、南北約二百八十メートル、東西約百メートルに及ぶことを確認した。築造時期は、斉明天皇の時代(飛鳥時代中頃)とみられ、天武天皇の時代(同後半)には、大きな改修が加えられたことも明らかとなった。

 飛鳥京跡苑池は、飛鳥時代の天皇の宮殿遺跡である飛鳥宮跡内郭の北西に近接することなどから、宮殿に付属する庭園であったと考えられる。

 二〇一〇年からは、奈良県による「史跡・名勝 飛鳥京跡苑池」の復元整備に向けて、発掘調査が再開された。新たに北池の規模や苑池に伴う建物、塀の存在などが分かった。特に南池については、再調査を含めた全面的な発掘調査を行い、その平面形や規模、水深、改修の状況と変遷など、全容を明らかにできた。

 発掘調査は、飛鳥京跡苑池の全体像の解明に向け、現在も進められている。

<すずき・かずよし> 1981年、福島県生まれ。東京学芸大大学院教育学研究科修了(修士)。「史跡 飛鳥宮跡」をはじめ、多くの発掘調査に従事。主な論文に「日韓古代宮都の構成要素に関する比較試論」など。

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◆報告 鶴見泰寿さん 年代、制度、組織…木簡は多くを語る

 飛鳥宮跡の発掘調査では比較的早い段階から木簡が出土している。最初の出土は第10次調査で、その後、第28次、第51次、第104次、第111次、第129次、第131次、第152次の各調査で出土した。飛鳥京跡苑池の調査では、北池や水路部分から木簡が出土している。

 飛鳥宮木簡からは多くの成果が得られた。まず、木簡の内容により、出土した遺構の年代を特定できるようになり、「飛鳥京跡」として調査してきた宮殿遺構の最上層が飛鳥浄御原宮であることが確定した。

 また五十戸一里制の施行時期が大化改新後、間もない時期になることや、国−評(ひょう)−里制に先立って国−評−五十戸制が存在したこと、天武朝の税制・医療などを解明する手掛かりを得られたことなどが挙げられよう。

 最後に、出土木簡から飛鳥宮がどのように使われていたかを読み解いてみたい。天皇の居所である内郭での出土例は少ないため、木簡から活動内容を推測することは難しい。東外郭では歴史書編纂(へんさん)に関わる官司が推定でき、内裏直属の組織が置かれたことが推測できる。内郭北方域では各地からの調(ちょう)・贄(にえ)(朝廷に納める物産)の荷札が多数出土することから、食膳に関わる官司が置かれたらしい。

 苑池周辺の木簡は園池司(えんちし)(離宮・庭園の管轄)、典薬寮(てんやくりょう)(医療機関)、大炊寮(おおいりょう)(米などの食料を支給する役所)のような官司の存在をうかがわせる。

<つるみ・やすとし> 1969年、愛知県生まれ。名古屋大大学院文学研究科博士課程前期課程修了。94年から奈良県立橿原考古学研究所勤務。木簡および飛鳥宮・東大寺の歴史を研究対象とする。主な著書に「古代国家形成の舞台 飛鳥宮」などがある。

地方から飛鳥宮に届いた荷物、食料品などに添えられた荷札木簡。現在の栃木県那須町とみられる「奈須評(なすのこおり)」(右から2番目)や、同じく福井県若狭町に当たる「三形評(みかたのこおり)三形五十戸」(左)などの地名が見られる

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◆パネルディスカッション

パネルディスカッションで意見を交わす(左から)奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の鶴見泰寿さん、同研究所の鈴木一議さん、国立歴史民俗博物館の林部均さん

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 林部 私は二〇一〇年に橿原考古学研究所から国立歴史民俗博物館に移った。それから八年がたち、飛鳥ではその間も発掘調査が行われている。鶴見さんと鈴木さんから最新の成果を伺い、天武・持統朝が宮殿とした飛鳥宮の時代はどういう時代だったのかを考えてみたい。

 鈴木 飛鳥京跡苑池は近年、継続的に調査を行い、かなり詳細な内容が分かってきた。

 林部 私が歴博(国立歴史民俗博物館)に移る前後、飛鳥宮跡内郭の北西で大きな建物が見つかったと記憶している。それは今、どう評価されているのか。

 鈴木 内郭やエビノコ郭の建物に匹敵するような大型の建物だ。平城京などで見られる内裏にあるような建物と関連性があるので、報告などでは内裏的な建物の可能性を指摘している。

 鶴見 この建物は内郭に隣接して造られている。エビノコ郭と同じく、内郭に付け加えて、後から造った可能性が高いと考えている。天武朝のころ新たに建てられ、内裏とよく似た構造をしている。

 林部 飛鳥京の苑池は、なぜここに必要になったのか。

 鈴木 苑池は宮殿に接して造られている。宮殿と苑池の関係の成立は古代中国に求められ、秦の始皇帝が造り、それを前漢の武帝が整備したりしているが、池の中に蓬莱山(ほうらいさん)など三山を造る。神仙(仙人)が住む理想郷を宮殿に付属して造る神仙思想などが背景にあると考えられる。

コーディネーターを務める林部さん

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 林部 飛鳥京の苑池のような立派なものは斉明朝くらいから出てくるのかなという気がするが、その点はどうか。

 鈴木 推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)があったとみられる雷丘(いかづちのおか)東方遺跡で、やはり飛鳥時代の石積みの護岸を持つ池状の遺構が一部見つかっている。宮殿と苑池がセットの関係を持つとすれば、推古朝の飛鳥時代初めからあったのではと思う。

 林部 (飛鳥京跡苑池の)南池では、中島を取り囲んで柱の跡がたくさん並んでいる。どのような遺構なのか。

 鈴木 可能性のひとつが桟敷状遺構。水上に浮かぶ木製の舞台のようなイメージだろうか。

 林部 最近の調査で特に大きな成果は、池のすぐ東側に門とそれに伴う掘立柱塀(ほったてばしらべい)が見つかったことだろう。苑池を囲む区画施設とみていいのか。

 鈴木 門の北と南にも塀が続き、北側では西側に折れ曲がる塀も。南側にも塀があるので、基本的には池を囲む区画施設に伴う門と考えている。

 林部 門は四間なので、天皇が使う門としてはおかしい気がする。塀のある南側に門がある可能性はあるのか。

 鈴木 宮殿や寺院には、南側に正門があるのが通例で、苑池にも南門があった可能性がある。残念ながら塀の西側は飛鳥川の氾濫で削られており、今後の発掘調査でも遺構が見つかる可能性は低いと思う。

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 林部 木簡から言えることを教えてほしい。

 鶴見 苑池から出た木簡の中に「嶋官(しまのつかさ)」というのがあった。嶋とは池の中の中島のこと。おそらく「嶋官」は庭園を管理する役所のことで、後に宮内省の下で「園池司」という役所につながる可能性がある。

 林部 飛鳥宮の木簡は小さかったり、必要な情報が少ないといった、変則的なものが多いと思うが。

 鶴見 やはり文書木簡が少ない。付け札とか帳簿、記録の類いが割合としては多い。

 林部 どのくらい木簡が出ているのか。

 鶴見 飛鳥宮だけで二千点、飛鳥寺の北の石神遺跡で三千五百点、飛鳥池遺跡で八千点。あとはこまごましたものを合わせて全部で一万五千点になる。

 林部 それを基にすれば、日本国家の成立過程がかなり描ける時代が来るのではないか。頑張っていただきたい。最後にお二人から飛鳥宮、飛鳥時代の研究について、抱負や決意表明を伺いたい。

 鈴木 すでに報告書が出ている調査に関しても、再調査することで、いまの知見で得られるものは多いと思う。遺物に関しても再整理することで得られる情報は多い。新たな発掘も含め、継続的に行っていくことが重要だと考える。

 鶴見 飛鳥浄御原宮のさまざまな儀式の内容が木簡などから判明すれば、平城京や平安京までつなげて考えることができ、日本での宮都の形成・発展過程がよく分かってくるだろう。まだまだびっくりするような発見もあると思う。期待していただきたい。

<飛鳥宮跡の発掘調査> 1959年からの180回にわたる発掘調査で、630〜694年にかけて、奈良県明日香村のほぼ同じ場所に、3期にわたり四つの宮殿があったことが分かった。このうちI期の飛鳥岡本宮は、傾斜している地形を改変せずに建てられたが、II期の飛鳥板蓋宮は、大規模な土地の造成により、中国の王宮と同じく、宮殿の方位が真北を向く「正方位」になるなど、大きな変化が見られる。従来は天皇(大王)の代替わりごとに王宮を移していたが、飛鳥宮から同じ場所で固定されるようになった。出土した木簡などから、遺構の年代の特定や周囲に配置された役所の解明が進行。99年からはIII−B期(III期後半)の飛鳥浄御原宮に付属する飛鳥京跡苑池の発掘調査も進む。調査の成果を踏まえ、国史跡「伝飛鳥板蓋宮跡」だった遺跡名が、2016年に飛鳥宮跡に改められた。

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