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【神奈川】

日本とアフリカ、サッカーで懸け橋に ザンビア移籍 元横浜M・中町選手が

2018年6月、ガーナの「ヒュウゴ・スタジアム」を訪れ、子どもたちと記念撮影する中町選手(上段中央)=いずれもPasson提供

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 プロサッカー選手の情熱が新たな道を切り開いた。昨季までJ1横浜MでプレーしたMF中町公祐(こうすけ)選手(33)がアフリカ南部のザンビアへ渡り、強豪クラブのZESCOに移籍。横浜Mから二年の契約延長オファーを断り、あえて環境や待遇面で過酷な移籍を決断した。「日本人の目をアフリカに、アフリカ人の目を日本に向けたい」と語り、スポーツを通じて「懸け橋」になる夢を描く。

 慶応大時代の同級生が設立したNPOに賛同し、二〇一三年からアフリカに教育支援の一環でボールを贈ってきた活動が転機となった。昨年六月、ワールドカップ(W杯)ロシア大会のJリーグ中断期間を使い、アフリカのガーナを初訪問。友人が整備に尽力した学校に併設されたグラウンドには、生まれてすぐに亡くなった中町選手の息子、彪護(ひゅうご)君の名前をつけてくれていた「ヒュウゴ・スタジアム」があった。

 自分の贈ったボールを使い、靴も履いていない子どもたちが笑顔を輝かせてプレーする姿に胸が熱くなった。「プロ選手として、父親として自分の生き方、生きざまって何か。日本とアフリカをつなぐ。息子の存在はそんな思いにさせてくれた。何かつながっている」と胸中を語った。

 移籍交渉はドタバタの連続だった。最初はジンバブエに行ったが「ガソリンスタンド四十八時間待ち、スーパーはおつりがない」という厳しい状況で断念。自ら現地交渉に臨み、見つけたのが政治的に安定したザンビアだった。それでも約束をすっぽかされ、金額交渉やビザの手続きでも苦闘。移籍期限ぎりぎりの一月末に契約にこぎ着けた。

 「財布事情で考えたら日本に残る選択肢が一番だった」と年俸は十分の一ほどになった。二人の娘もまだ小さく、家族を日本に残して覚悟を決めた移籍。中盤の守備的なポジションを争う二人は一九〇センチ台の大型選手でレベルは高いという。

 公式戦の日程変更や片道七時間のバス移動は日常茶飯事で、ピッチもぼこぼこと環境は激変したが「全く後悔はない」と言い切り、「こっちのスタイルに慣れちゃって、真新しかったことが日常になった」と苦笑する。

 ボールを届ける活動に加え、自身の経験を通してアフリカの医療機関も支援するNPO法人「Pass on」を設立。三月、日本サッカー協会から国際委員にも選任された。在アフリカ、現役選手の委員は初めてだ。八月に横浜市で開かれるアフリカ開発会議(TICAD)への協力にも前向きに取り組む。

 「アフリカに外から支援するだけでなく、アフリカに来て人生を懸けてサッカーしている。そこは受け入れてもらったかな」。新天地での挑戦はまだ始まったばかりだ。

<中町 公祐(なかまち・こうすけ)> 群馬・高崎高から2004年にJ2湘南入り。08年からは慶応大でプレー。卒業後の10年にJ2福岡に入団し、12年から横浜Mでプレー。J1通算183試合15得点。174センチ、74キロ。埼玉県出身。33歳。

ザンビアの強豪クラブ、ZESCOでプレーする中町選手

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