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【暮らし】

<家族のこと話そう>「父殺し」の物語に衝撃 ロシア文学者・亀山郁夫さん

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 教師だった父は非常に厳しい人で、自らの理想を追い求める教育者でした。四十代初めで栃木県真岡市の教育長を務めましたが、部下が起こした不祥事の責任を取って失脚し、一介の中学教師に。挫折の人生を送った人でした。

 僕は六人きょうだいの末っ子。長男の兄は、ものすごく精密な鉄道の絵を描いたり、各地の駅の名前を覚えていたりと、天才肌の人でしたが、父の期待通りではなかったようでした。長男だけを露骨に差別し、食事も一緒にとらなかったほど。だから、いつも家庭の空気が重苦しかった。自分も幼心に正義感が働き、子どもを差別する父が憎くて、うっとうしかった。

 初めてドストエフスキーを読んだのは中学三年。父が子どもに読ませようと買いそろえた世界の文学全集の中から、たまたま手に取ったのが「罪と罰」。あんな分厚い本を読んで、嫌いな父を驚かせてやりたい、という気持ちがありました。

 読み始めると、物語に見事にのめり込み、主人公のラスコーリニコフに完全になりかわった。そこから、今に至る人生のすべてが始まったような、強烈な読書体験。ある意味、「自立して大人になれ」との父からのメッセージだったのかもしれません。

 「カラマーゾフの兄弟」は、酒飲みでけちで、女好きなカラマーゾフ家の父、フョードルの殺害の謎を巡るミステリーで、殺したのは四人兄弟の誰なのか−という物語。高校二年の終わりに読んだとき、「父殺し」という言葉を見て、ショックでした。「父がいなくなればいい」という、自分の中にある潜在的な思いを発見させられたようで、うしろめたくて父の顔を見られなかった。

 カラマーゾフの兄弟に出てくるフョードルの三男、アレクセイには、どうしようもない生みの父と、ゾシマ長老という、優しく導いてくれる精神的な父がいます。僕にも二人の父がいました。

 一人は嫌いだった生みの父。もう一人は、常に自分を気に掛けてくれた東京外国語大の恩師。僕は、自分に愛情を持って接してくれる年上の男性にいつも、精神的な父を感じます。生みの父に代わる理想的な父を求めていたのだと思います。

 父親とは何なのでしょうか。僕には長女と長男がいて、今は二人とも自立して頑張っていますが、僕が四十代のころ、突然に「自分が死んだ後、子どもがものすごい不幸に見舞われるのでは」という恐怖に襲われたことがあります。子どもが苦しんでいるのに、全く手助けできず、分厚いガラスの向こうから見るしかない。どうして、こんな感情がわいてくるのか。もしかしたら、これこそが根源的な父性愛なのかな、と思います。

 聞き手・河郷丈史/写真・北村彰

<かめやま・いくお> 1949年、栃木県生まれ。東京外国語大教授、学長を経て、2013年から名古屋外国語大学長を務める。ドストエフスキー研究の第一人者として知られ、06〜07年に出版した新訳「カラマーゾフの兄弟」(光文社)は5巻合計で100万部を超えるベストセラーになった。

 

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