東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 3月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム

東京五輪500日前イベントで発表された、実施競技を表す50種類のピクトグラム(絵文字)=12日午前、東京都江東区で(市川和宏撮影)

写真

 二〇二〇年東京五輪開幕まで五百日となった十二日、大会組織委員会は競技種目を表す絵文字「ピクトグラム」五十種類を発表した。初めて五輪に導入された一九六四年東京五輪のものをベースに、競技者の動きをシンプルに表したのが特徴。「先人へのリスペクト(尊敬)とともに継承・進化させた」としている。

 東京都江東区での発表会には、一六年リオデジャネイロ五輪陸上男子400メートルリレー銀メダルの飯塚翔太選手(ミズノ)、空手女子の清水希容選手(ミキハウス)が出席。飯塚選手は「飛び出し角度が理想的で速そう」、清水選手は「リアルでかっこいい」と述べ、それぞれピクトグラムと同じポーズを披露した。

 視覚的に意味を理解できるピクトグラムは、〇八年北京大会では篆書(てんしょ)をモチーフにするなど開催都市の特徴を出すデザインが近年増えている。だが、今回は分かりやすさという本来の情報伝達機能を重視し、発祥の地、東京でレガシー(遺産)に原点回帰する形をとる。

 六四年大会のピクトグラムは二十種だったが、競技数の増加に伴って増え、今回の五十種は国際オリンピック委員会(IOC)や各競技団体と協議して決めた。

 実施競技数は三十三だが、自転車でロードやトラックなど五種に分けるなどして増えた。

 デザイナーの廣村正彰さんら約十人のチームで一七年六月から開発を進めていた。パラリンピック用は二十三種で、開幕五百日前の四月十三日に発表する。会場内の各施設を表示するピクトグラムも作成中という。

 ピクトグラム発表会に続き、福島県飯舘村と江東区の小学生が震災復興をテーマにそれぞれ作成したモニュメントを交換した。

◆導入先駆け、11人の情熱 80歳原田さん「誇らしかった」

1964年東京五輪用に作ったピクトグラム(左の2枚)と、作業の様子の版画を手にする原田維夫さん=東京都港区で

写真

 ピクトグラムは海外からの選手や観客らに競技や会場施設を示す「共通言語」として、一九六四年東京五輪が全面導入の先駆けとなった。デザインを手がけたのは当時の若手美術家ら。狭い作業場で生まれた作品の数々が、後に各国の五輪や万博で使われる絵文字の原型となった。

 「アフリカの人も北欧の人も来るんだ。一目見て分かるものを考えよう」。五輪開幕が間近に迫る六四年のある日、組織委が入る赤坂離宮(現迎賓館赤坂離宮)に招集された十一人に、美術評論家の故勝見勝氏が呼びかけた。楕円(だえん)形の大型机に鉛筆とわら半紙が積まれていた。

 十一人は後に世界的美術家となった横尾忠則さんら新進気鋭の顔ぶれ。最年少の二十五歳だった版画家の原田維夫(つなお)さん(80)は「憧れの大先輩ばかり。そこに呼ばれて誇らしかった」と振り返る。

 競技用ピクトグラムは前年に完成済みで、十一人が取り組んだのは食堂やトイレ、更衣室などの施設用。週に数回、普段の仕事を終えた後の午後七時ごろに集まった。弁当が出るだけの無給奉仕で、三十九種類を編み出した。

 原田さんによると「サウナ」のデザインが特に難しかった。「あぐらをかいた人の後ろで湯気が立ち上る絵を描くと『不動明王みたい』とみんなに笑われてね」。ライバル同士が、和気あいあいとアイデアを出し合った。「日の丸を背負う気持ちで団結していた」

 作業が全て終わった後、十一人は著作権放棄の同意書にサインした。普及を重視する勝見氏の方針だった。「四年後のメキシコ五輪で、自分たちの作品のアレンジ版が使われたと知ったときはうれしかったね」と原田さん。東京を契機に国際イベントでの使用が一般化し、ピクトグラムはレガシー(遺産)となった。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報