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【社会】

<にっぽんルポ>徳島・にし阿波 天空の村に光差す

急峻な山の斜面に人々が息づく落合集落。2月半ばの雪で白くなり、霧に煙った=徳島県三好市で

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 切り立った山の斜面が霧で煙っている。水墨画の世界だ。

 徳島県西部、四国の中央に近い三好市、東みよし町、つるぎ町、美馬(みま)市からなる「にし阿波」地域。西日本で二番目の高峰・剣山(つるぎさん)(一、九五五メートル)をはじめとする四国山地の険しい山々と、深い渓谷を刻んで流れるエメラルド色の吉野川が絶景を織り成す。

 前日の雨や川の流れがもたらす水蒸気は、朝の冷え込みで低い雲や霧となり、その上に小さな集落がのぞくと、まるで「天空の村」。谷間にミルクを流し込んだような幻想的な雲海も折々に現れる。

 「この辺りは標高の高い所にも湧き水(地下水の湧出)がある。八百メートルの高さでも水が湧くから、急傾斜地に家がへばりつくようにして暮らしていける」

 にし阿波の魅力を広める活動を続ける三好市の一般社団法人「そらの郷(さと)」の職員、松浦英人さん(42)は話す。こうした大地の恵みと、平らな土地がない中で先人の知恵が生んだ独特の農法が、古くから高地での生活を可能にした。

 過疎地の代名詞のような「限界集落」としてでなく、「秘境」「桃源郷」「日本の原風景」として近年にわかに脚光を浴びる。米大手旅行雑誌「トラベル・アンド・レジャー」は昨年訪れるべき世界の五十の旅行地に日本で唯一、にし阿波の「祖谷渓(いやけい)」を選んだ。

 急峻(きゅうしゅん)な地形、過酷な自然環境の中でもひっそりと息づき、この地域の魅力を世界に向けて発信し始めた人々を訪ねた。

◆まるで崖の上

最大斜度40度の急斜面の畑で、世界農業遺産に認定された伝統農法を継承する西岡田治豈さん、節子さん夫妻=徳島県つるぎ町で

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 剣山の北側、つるぎ町の山あいに、伝統農法で知られる西岡田治豈(にしおかだはるき)さん(78)の畑はあった。段々畑ではなく、急斜面のまま耕作するのだ。畑のてっぺんに立ち、眼下に広がる畑を見下ろす。斜面というより崖の上にいる気分。目がくらみ、足がすくむ。

 広さ三十アールほどの畑の高低差は約七十メートル。最大斜度は三〇〜四〇度とスキーのジャンプ台並みだが、西岡田さんは妻節子さん(71)と連れ立ってスタスタ歩いていく。「慣れとるけ、恐ろしくはない。ただ、タマネギが転がったら畑の下の道路まで行ってしまう。人に当たるのが心配でな」

 十代の時からこの畑で雑穀や野菜を作ってきた。麦、ソバ、アワ、キビ、サツマイモ、ジャガイモ、インゲン豆、シシトウ、大根…。かつてはタバコも栽培した。

 斜面に雨が降れば土が流れる。それを防ぐため、地表に茅(かや)を筋状に敷き込む。これが土留(どど)めで、分解されて肥料にもなる。それでも流れた土は、六つ股(また)のフォークのような形をした独特の農具「サラエ」でかき上げる。にし阿波に四百年以上前から伝わる農法だ。「昔ながらのことしよるけ、原始人と一緒」と笑う西岡田さん。

 国連食糧農業機関(FAO)は昨年、この「にし阿波の傾斜地農耕システム」を世界農業遺産に認定した。西岡田さんは農業遺産のシンボル的な存在だ。「伝統的な農作業を守ってきて報われた気持ちもあるけど、大変な重荷を背負わされた感じ。背負子(しょいこ)(作物などを背負う道具)より重いです、身に染みて。後継者を探さないと」

 そう言って西岡田さんは家のこたつに入り、畑にいる時と全く変わらない優しい笑みを浮かべる。

◆ホテル開業で活路

「古里を何とかしたい」とホテルを開業、土石流やがんも乗り越えて宿泊客をもてなす谷口宏さん=徳島県三好市で

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 旅行雑誌とSNSの書き込みで観光客が急増する「祖谷渓(いやけい)」。吉野川の支流・祖谷川に沿って、深いV字の渓谷美を誇る。

 地元のホテル五軒が十年ほど前から、外国人観光客を増やそうと台湾や香港へPRに繰り出した。向こうの旅行業者に渓谷の絶景を映像で見せる。「すぐにツアーを組んでくれたわけではないが、何度も行くと『また来たか』と親しくなり、徐々にお客さんも増えました」。五軒の一つ「ホテルかずら橋」の社長で、三好市観光協会会長の谷口宏さん(72)は言う。

 五軒の外国人宿泊客は十年間で三十倍に増え、一昨年と昨年の二年連続で一万八千人を超えた。中国、米国、欧州からの旅行者も多い。日本人を含む総数は年七万人台。四人に一人が外国人だ。

 自動車修理工だった谷口さんの転機は不惑を過ぎたころ。過疎化が進み、廃屋が至る所で目につく。地域が滅んでいくことを恐れた。「この祖谷が僕の古里だ。祖谷を何とかしたい…そう思った」。振り返る言葉にも力がこもる。

 「これからは世界を相手に商売しないかん」と、四十二歳でホテルを開業。「妻以外、家族は全員反対。銀行からも『そんな危険なことを』と言われた。妻はどうせ実現しないと思って反対しなかった」。折しも瀬戸大橋が四国と本州を結び、ホテルは軌道に乗った。

 十年後、豪雨で土石流がホテルを直撃。一〜二階の大半が土砂で埋まった。ホテル脇の小さな谷川の流れ方が普段と違うことに気づいた谷口さんが避難を呼びかけ、宿泊客と従業員は無事だった。

 「廃業しようと思った。でも、地域の人たちが総出で泥をかき出したりして助けてくれた」。感謝の一念で地域のために頑張ろうと、一年半の休業を経て営業再開。ちょうどそのころ見つかった腎臓がんも乗り越えた。「長い人生、いろんなことがありますわ」。年輪を刻んだ笑顔で客を迎える。

◆派遣切りが転機に

派遣切りに遭った経験から、人とのつながりを大切に地域の魅力を広める鈴木重光さん(左)。雪化粧したにし阿波の景観の魅力をドイツ人観光客に説明する=徳島県つるぎ町で

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 結婚を機に、首都圏から妻の実家があるにし阿波に移り住んで二年弱。この地の魅力を広める「伝道師」と早くも呼ばれているのが三好市の鈴木重光さん(46)だ。

 十年前の正月は、東京の日比谷公園にいた。リーマン・ショック後の派遣切りの嵐で、仕事と住む所をなくした人たちが飢えと寒さをしのいだ「年越し派遣村」。鈴木さんも川崎市のトラック工場で派遣切りされたが、会社と交渉して寮の退去を先送りし、ボランティアの側で炊き出しを手伝った。

 「派遣村で学んだのは人と人のつながり。それまでは一人で生きていると思っていた」。個々が分断され、使い捨てにされた派遣社員の職も「自分が選んだ」と自己責任論に乗せられていた。「弱さを認めて人とつながること」ができなかった自分に気づいた。

 にし阿波に来る前は介護の仕事に就いた。「人とご飯を食べて、話して、楽しくなれる。それは施設でも地域でもできること。小さな集落に入って、じいちゃん、ばあちゃんとやれることを探してます」

 家の畑で農作業の傍ら、築百十年の古民家を改装して民宿も営む。国内外からの旅行者や地元の子どもたちも含め、農作業の体験学習や、農家のばあちゃんを講師に呼んで昔ながらの醤油(しょうゆ)作り教室など、多彩なイベントを企画して地域の魅力を発信している。

 「派遣村で学んだように、じいちゃん、ばあちゃんと子どもたちをつなげたい」。にし阿波のガイド、コーディネーター、セールスマン…。どの言葉でも表現しきれない鈴木さんの活動の広さだ。 (文と写真・宇佐見昭彦)

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