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【社会】

<この町で歩む 福島・富岡の小中学校 再開1年> (下)復興の象徴、現実厳しく

学校行事に招かれた地域住民と交流する子どもたち=福島県富岡町の富岡校で

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 福島県富岡町で昨春再開した小中学校「富岡校」で二十二日にあった小学生の卒業式。体育館には地域住民用の五十席が用意されたが、座っていたのは十人ほどだった。その一人、黒木さち子さん(62)は六年生四人の晴れ姿を見つめながら、校歌を口ずさんだ。

 大膳原(だいぜんぱら)や 小良ケ浜(おらがはま) 大倉の雲 波の音 ここみちのくの 学び舎(や)に−。

 町内にあった小学校二校、中学校二校を集約した富岡校では、行事のたびにそれぞれの校歌斉唱がある。町で生まれ育った黒木さんは、富岡第一小の出身。詩人草野心平が手掛けた校歌の歌詞には、半世紀以上も前から親しんできた。

 東京電力福島第一原発事故で、黒木さんは福島県いわき市などを避難で転々とした。二〇一七年四月に町の大半で避難指示が解除され、その四カ月後に富岡校近くの復興住宅に移った。学校再開後は校舎内のホールで週一回、近所の人たちと紙テープでかごなどを作る。「学校に来ると、子どもの笑い声が聞こえるのがいい」と目を細めた。

 花壇の整備、盆踊りや太鼓の練習、しめ縄づくりなど、学校は子どもが住民と接する時間を多くしている。昨年十一月の町内であった行事では、子どもたちが町民のサークルに交じって劇や和太鼓の演奏を披露した。「客席には目に涙を浮かべていた人もいた」と、主催した町社会福祉協議会の吉田恵子さんは話す。

 子どもたちと学校は、原発事故で避難を余儀なくされた町や住民にとって「復興」の象徴だ。しかし現実は厳しい。避難指示解除から二年、町に住む人は八百七十七人(三月一日時点)と住民登録者の7%ほど。一万二千人以上が避難先で生活を続け、町の調査では半数は「町に戻らないと決めている」と回答。避難先で生活基盤ができたなどの理由で、特に二十〜三十代に「戻らない」が多い。

 避難指示が出ていた地域で同時期に再開した川俣町の山木屋小は、四月から児童がゼロとなり休校する。富岡校では小学校の新一年生が一人、他に転入生も入り、小中合わせて二十六人の予定。再開初年度よりも三人増えるが、町の石井賢一教育長(65)は「大人が働く場所がないので児童生徒は一気には増えない。造成中の産業団地が二年後にできれば増えるかもしれないが…」と楽観視はしていない。

 少人数の富岡校では、二つの「距離」をどう縮めるのかという課題を抱える。一つは、卒業式の光景が物語るように住民との距離。富岡校では五月、町民に参加を呼び掛けて、九年ぶりに町で運動会を開く予定だ。避難先にいる住民も参加してもらえるよう、町に依頼する。日ごろの体育の授業に住民に加わってもらうことを試みる。

 もう一つは、富岡町が約五十キロ離れた三春町に設けた小中校「三春校」に通う二十人ほどの子どもたちとの接点を増やすこと。運動会など行事以外では会うことが難しく、インターネットを使ってテレビ画面越しでやりとりできる授業を導入した。周辺の小規模校ともネットで結び、互いに弱点を補っていくという。

 「少人数だと縦のつながりはあるが、同年代と切磋琢磨(せっさたくま)し、たくましくなってほしい」と、小学校の岩崎秀一校長(59)。富岡校の挑戦は始まったばかりだ。 (松尾博史)

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