東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 4月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

戦争の理不尽さ、令和へ語り継ぐ 「大和」乗員を救助の元年少兵が手記

駆逐艦「雪風」に乗り組んだ西崎信夫さんと、共同して手記に携わった小川万海子さん=2日、東京都西東京市の西崎さん宅で

写真

 太平洋戦争末期、七十四年前の四月七日、戦艦「大和」は沖縄に向かう途中、米軍機の猛攻を受け、東シナ海に沈んだ。護衛した駆逐艦「雪風」の乗組員だった西崎信夫さん(92)=東京都西東京市=は、艦上から見届けた大和の最期や自らの戦争体験を、手記「『雪風』に乗った少年」(藤原書店)にまとめた。戦争のむごさ、理不尽さを、令和の時代に語り継ぐ。 (加藤行平)

 約一キロ離れた海上で目撃した大和の最期は、今でも鮮明に覚えている。「熱風を感じて、足の底から突き上げる力を感じた」。転覆して艦底をさらした巨艦は火柱を上げて爆発、真っ黒い煙を噴き上げ、真っ二つに折れて沈んだ。三千人の命が奪われた。

 自分と同年代の若い兵士たちが海面に漂い、助けを求めていた。うつぶせに浮かぶ遺体も。雪風は船べりからロープを垂らすなどして助けようとしたが、救助したのは百五人。「なぜこんな若者が命を、夢を捨てなければいけないのか」。救助しながら抱いた疑問から、戦後は体験を書きため、手記に克明に刻んだ。

 三重県出身の西崎さんは一九四二年九月、中堅幹部を育成する特別年少兵の一期生として、十五歳で旧海軍に入った。家計を助けるためでもあった。広島県の大竹海兵団と神奈川県横須賀市の水雷学校を経て、四三年十一月、雪風の魚雷射手となった。

試験中の戦艦「大和」、1941年撮影=いずれも大和ミュージアム提供

写真

 雪風は終戦までほぼ無傷で残った「奇跡の駆逐艦」。戦後は中国や南方方面からの引き揚げに従事し、四七年に戦時賠償として現在の台湾に引き渡された。西崎さんは同年秋まで乗り組んだ。

 手記には海上特攻のほか、海兵団でのスパルタ教育や大和と同型の戦艦「武蔵」の最期の状況、復員業務などの様子を記した。語り部活動を通じて知り合った元外務省職員、小川万海子(まみこ)さん(52)=多摩市=が雪風や西崎さんゆかりの地などを取材し、共同でまとめた。小川さんは「西崎さんは『命ほど尊いものはない』ということを教えてくれる」と話す。

 同期の年少兵の六割は戦死した。「無謀な作戦で多数の兵士たちが犠牲になった。生き残ったからには、生々しい体験を少しでも若者に伝え残したい」と西崎さん。二〇一二年度から総務省の委託を受けて、戦争に関する資料の展示や体験を伝える東京・新宿の平和祈念展示資料館で年に数回、自身の体験の語り部活動を続けている。

 <戦艦「大和」>旧海軍が米英の新型戦艦に対抗するため、極秘裏に建造。広島県呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で1937年に起工、41年12月に就役した。世界最大の46センチ主砲3基9門を搭載、基準排水量は6万4000トン。計画当時の大艦巨砲主義、艦隊決戦思想は真珠湾攻撃以降、航空機優先に変わり、戦闘の表舞台に立つことはなかった。45年4月、沖縄に上陸した米軍への海上特攻に使用。7日、鹿児島県枕崎市の西南西約200キロで米軍機の攻撃を受け、軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」など5隻とともに沈んだ。

煙を上げて沈む「大和」。米軍機から撮影

写真
 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報