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【社会】

<平成という時代>阪神大震災 善意の輪つながり始めた

まだ日の昇らないうちから避難所で炊き出しの準備をする人たち=1995年2月17日、神戸市東灘区の本山第三小で

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 校庭を訪れると、今年の春もシダレウメが花を開かせていた。

 神戸市東灘区の本山第三小学校の子どもたちが、阪神大震災の翌年に植えた「みんなの心の木」。一九九五(平成七)年一月十七日の震災で、同校の児童六人も犠牲になっていた。

 激震地の一つだった学校周辺を取材したのは、入社二年目の駆け出し記者のときだ。校舎の一部には遺体が安置され、グラウンドには自衛隊のテントが並び、避難者がひしめいた。電気やガスも通らない真っ暗なガレキの町で「これが日本か」と打ちのめされた。

 当時、取材した一人に六年一組の担任だった三輪恭子さん(73)がいる。兵庫県芦屋市の自宅マンションが倒壊し、避難所から職場に通っていた。「最初はクラスの子どもたちの安否確認で精いっぱい。借りた自転車で一軒一軒回りました。卒業間近でしたけど、他に何も考えられへん。本人は無事でも家族を亡くした子もいた」と昨日のことのように振り返る。

 授業を再開できたのは二月に入ってから。被害が少なかった近隣の本山第一小学校の校舎を間借りして一日二時間だけのスタートだった。

 兵庫県内では公立だけでピーク時に三百八十九校が避難所となり、十八万人が身を寄せた。九七年八月に閉鎖された後も五十校近くに避難者が残っていた。行政の手は足りず、ボランティアも手探りの被災地で、教師たちは寝る間も惜しんで避難所運営を支えていた。過労で倒れた教師も少なくない。

 阪神大震災は、善意のループの始まりでもある。二〇〇四年の新潟中越地震や一一年の東日本大震災などの被災地に、ノウハウを積んだ阪神の教師たちが派遣されてきた。痛みを知る被災者が、その後の災害現場に手を差し伸べた。

 定年まで小学校教諭を続けた三輪さんも、相次ぐ災害に「近かったら手伝いにいくのに」ともどかしがった。たくさんの助けが忘れられないからだ。

 「普通に暮らせることがどれだけありがたいことか。私自身も『かしこなくてもいい』『毎日学校きとるだけでいい』『もう生きとるだけでいいよ』と思うようになりました」

 戦争も災害も遠い国の悲劇ではなかった。あの時、足元から崩れたのは日本の「安全神話」だった。

 阪神大震災で学んだことがもう一つ。東京から派遣された記者は、ベテランの現地キャップに怒鳴られた。「女はいらんと言っただろうが」。大勢の記者が旅館で雑魚寝する取材環境を理由にしたが、八つ当たりのような叱責(しっせき)を長時間受け、取材前からへこまされた。

 社会は思った以上に理不尽だった。

 避難所では、間仕切りもない体育館で若い女性たちが困り顔で着替えをしていた。のぞきを警戒した同年代の女性に「トイレについてきて」と頼まれたこともあった。運営責任者はほとんどが男性で、女性の苦痛も不安も届きにくかった。

 その光景も少しずつ変わっている。私たちはみんな、あの日から歩き始めた。 (中山洋子)

 <阪神大震災>1995年1月17日午前5時46分に発生し、神戸市や淡路島で国内初の震度7を観測。家屋やビルの倒壊などで当日に5000人以上が死亡した。避難生活の疲労やストレスで体調を崩す高齢者らが続出。災害関連死の概念もこのとき生まれた。関連死を含めると犠牲者は約6400人。被災地には最初の2カ月だけで全国から推計で約100万人が支援に駆けつけ、「ボランティア元年」とも呼ばれた。

 

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