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【社会】

新島 砲弾の傷痕半世紀 浜辺で爆発 右目と親友失う

経営する生花店で、失った友人について話す宮川橋一さん=千葉県内で(沢田将人撮影)

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 五十年前の六月、伊豆諸島・新島(にいじま)(東京都新島村)の砂浜で旧陸軍の砲弾が爆発し、男子中学生二人が死傷した。陸軍が駐留した新島では終戦後、大量の砲弾類が海に投棄され、台風などで海岸に打ち上げられていた。爆発事故の後、海上自衛隊が毎年、新島沖を捜索。今年も五月末に実施した。事故で右目を失った宮川橋一(きょういち)さん(63)=千葉県柏市=が故郷の海に願う。「島に残った戦争の跡、事故の悲劇を忘れないでほしい」 (木原育子)

 一九六九年六月二十九日。中学二年の宮川さんは放課後、卓球部の仲間と砂浜にいた。泳いだ後、たき火の中に砲弾があると知らず、温まっていた時に爆発。破片が、親友で「クニ」と呼んでいた前田国徳さん=当時(13)=の胸を貫き、宮川さんの右目を直撃した。クニは死亡。宮川さんも約一週間意識が戻らず、右目は義眼になった。

 「助かって良かったなんて思えなかった。クニが死んで、自分だけ生きているのは罪にさえ思えた」

海底に沈む砲弾の捜索を行う自衛隊員=5月31日、東京都新島村本村で(朝倉豊撮影)

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 新島には太平洋戦争末期、旧陸軍の独立混成旅団が二千人規模で駐留。硫黄島から本土を狙う米軍の上陸を阻止しようと、要塞(ようさい)をつくる計画もあった。

 終戦直後の四五年十〜十一月ごろ、連合国軍総司令部(GHQ)の命令で、島民は旧陸軍が残した大量の砲弾を、新島沖に投棄する作業に駆り出された。だが、海が荒れると、銃弾などが強い波に流され、前浜海岸に打ち上げられていた。

 子どもたちは無邪気に火薬を抜き取り、花火のように遊ぶこともあった。鉄くずとして売ったり、火薬をたき火の点火に使ったりする島民もいたという。そんな中での事故だった。

 宮川さんは新島の高校を卒業後、国学院大に進学。アルバイト先の東京・浅草橋の生花店に就職し、結婚。二十九歳で自分の店を持った。都中央卸売市場の大田市場に花き部ができた九〇年には、仲卸部門の開設に関わった。今も千葉県流山市の生花店に立つ。

 二人の子どもの名前にはいずれも「海」の一文字を入れた。新島に帰ると、真っ先にクニの墓前に行き、その季節で一番美しい花を供えている。「新島は、ずっと砲弾と共存してきた」と宮川さん。事故後の半世紀を振り返り静かに語った。「戦争は多くの人の人生を変える。どんな理由であれ、肯定はしたくない」

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