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【社会】

愛されて30年、ぽん太の広場 信楽焼タヌキの置物 なぜ有楽町駅地下に

現在の「ぽん太の広場」。信楽焼をPRする横幕が設置された=東京都千代田区の東京メトロ有楽町駅地下コンコースで

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 東京都千代田区の東京メトロ有楽町駅地下コンコースの一角で、滋賀県の特産品である信楽(しがらき)焼のタヌキの置物が三十年にわたって行き交う人々を見守り続けている。毎朝なでていく通勤客や、写真を撮る外国人も。「ぽん太の広場」と名付けられた区画に置かれたタヌキの数は十一匹。彼らはなぜここにいるのか。 (長竹祐子)

 幅二・五メートル、奥行き一・三メートルのスペースにタヌキ、カメ、フクロウ、イヌの置物計十七個がぎっしり置かれている。広場の場所は東京メトロ有楽町駅と都営三田線日比谷駅を結ぶ通路のD6出口付近。「信楽焼・ぽん太のふるさと滋賀」と書かれた横幕が掲げられている。

 そこで、滋賀県の東京本部に問い合わせると「駅長がお土産で買ってきたのが始まりだそうです」と答えが返ってきた。一九八八(昭和六十三)年十一月に土産のタヌキ二匹が置かれ、「駅の待ち合わせ場所に」と囲いや台座を整備し、広場になった。

 タヌキはすぐに父ダヌキと子ダヌキ五匹の計六匹に。「その後、タヌキは増えたり、家出したりしているそうです」といい、持ち去られたり、追加されたりしているという。

 駅にも聞いてみた。

 「当時を知る人がほとんど退職してしまって、経緯がよく分からなかったんです」と助役の大室勉さん(54)。しかし、目の前の卓上に一冊のファイルが。最初にタヌキを設置した当時の駅長がまとめた、ぽん太関連の資料を探し出してくれた。

 資料によると、六匹になった段階で名前が公募され、「ぽん太」「ぽん吉」「ぽん助」「きんぼう」「ぽこたん」「ポコポン」と決まった。設置一年後には子ダヌキは八匹になった。その後、「どうして母親がいないの?」という駅利用者の声を受け、母ダヌキも設置された。ただ、最初にタヌキが置かれた経緯は、どの資料にも記載がない。

 資料の中に、駅側と信楽焼振興協議会が交わした「ぽん太の広場」に関する覚書があった。そこに「ぽん太の広場の『信楽焼』は信楽焼振興協議会の寄贈である」という記述がある。あれ、駅長が買ってきたのが始まりではなかったのか?

 協議会に問い合わせると事務局の長谷川善文さん(51)から意外な答えが。「有楽町駅の近くに住んでいた人が引っ越す時、家にあったタヌキの置物を寄贈したのが始まりだそうですよ」。その後に増えた子ダヌキたちが協議会の寄贈だという。

 駅長のお土産説も、近所の人説も、裏付ける資料はない。

 今となっては、どれがぽん吉でどれがぽん助か分からないし、ぽん太も初代のものなのかどうかも不明だ。

 それでも関係者は気にしない。資料を目にした大室さんは「皆さまに愛されている様子が分かったので、このまま大切にしたい」。広場の掃除をしている駅職員有志の一人の立木規剛さん(29)は「お子さんに喜んでもらえるとうれしい」と話す。

 長谷川さんは「都心の良い場所で信楽焼がPRできるのはありがたい」と感謝している。タヌキの御利益か、みんな幸せそうだ。

<信楽焼のタヌキ> 滋賀県甲賀市信楽町の特産。タヌキの置物は昭和初期、陶芸家の藤原鉄造さんが考案した。タヌキのかぶる「かさ」は災難を避ける、手にする「徳利(とっくり)」は人徳、「通い帳」は信用第一を表現していて、商売繁盛の縁起物とされる。1951年、昭和天皇が旧信楽町を行幸した際に、旗を持った大小のタヌキが路上に並べられた様子を歌に詠んだことから、信楽焼のタヌキが全国に知られるようになった。

1988年12月、開設直後の「ぽん太の広場」。ススキを飾り里山の雰囲気を出している=同駅提供

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