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【社会】

故水上勉が見た「天安門」 事件30年 長女が「記録画」公開

輪タクに乗せられた負傷者が描かれ、「天安門にて銃音しきりなればその犠牲者たるは明らか」などと書かれている=東京都内で

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 中国当局が学生らの民主化運動を武力弾圧した天安門事件から六月で三十年が経過した。日中文化交流協会代表団の団長として偶然、現地で事件の一端を目撃した作家の故水上勉さん(一九一九〜二〇〇四年)は、「記録画」に当時の衝撃を描いていた。これまで表に出ることはあまりなかったが、事件三十年を機に、保管する長女蕗子(ふきこ)さん(73)=長野県東御市=が本紙に公開した。 (佐藤大)

 水上さんらの一行は一九八九年六月一日、北京に到着した。当時、北京市中心部の天安門広場では、多数の学生や市民らが民主化を求め大規模デモを行っていた。

 軍の戦車などが同三日夜に制圧を始め、多数が死傷。水上さんは、天安門にほど近い宿泊先「北京飯店」から、けがをして搬送される人々や戦車を目撃し、詳細をメモに取った。

 一行は同六日、日本政府の救援機で帰国した。水上さんは家族と再会してほっとしたのもつかの間、翌七日早朝に体調が急変し、心筋梗塞で緊急入院。心臓の三分の二が壊死(えし)したが、一命を取り留めた。手術後、病室に竹紙を取り寄せ、絵筆を執った。

 水上さんはこれらの体験を「心筋梗塞の前後」(一九九四年)に書き記している。

 ただ、記録画についてはなじみの深い京都の画廊などで一部が展示された以外、ほとんど公開されてこなかった。蕗子さんによると、中国の関係者に配慮し、公表には積極的ではなかったという。

 額装された記録画は全部で十四点。そのうちの一点では、着衣を赤く染め、輪タクに乗せられた負傷者が中央に描かれ、「(繁華街の)王府井は負傷者と死者の運ばれる道なり」「わきに学生らしき男いてこれも血みどろなり」「天安門にて銃音しきりなればその犠牲者たるは明らか」などと書かれている。

 別の一点では、中国で赤十字を示す「紅十字」の旗を持った人の姿が描かれている。

 水上さんを研究する山梨大の大木志門准教授(日本近代文学)は記録画について「水上勉は一方で私小説を書きながらも、現実の出来事を追い、社会派的な目を持ち続けた。見たものを残さなければならない、という思いがあったはずだ」とみる。

 記録画や「心筋梗塞の前後」には、事件を論評するような記述は見当たらない。水上さんは若い頃に一時、旧満州(中国東北部)に渡った経験があり、生涯に何度も訪中している。

 大木准教授は「水上勉にとって中国は大事な存在だった。(事件に対して)思うところはあったはずだが、すべてを見たわけではない出来事に対し、ひと言で言うべき問題ではない、という考えもあったのだろう」と分析する。

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<水上勉さん(みずかみ・つとむ)> 福井県大飯郡本郷村(現おおい町)生まれ。10歳で京都の寺に徒弟に出された。立命館大に進んだが、学費が足りず退学。戦後、初出版の「フライパンの歌」が好評を得たが、生活に追われ、一時、文学から離れた。再登場し「雁の寺」で直木賞。代表作に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」など。絵もたしなみ、京都を描いた画文集なども出版した。蔵書や竹人形劇場を備えた「若州一滴文庫」をおおい町につくった。

 

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