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【社会】

「美智子さま 唯一の候補」 元東宮大夫のメモ 51年から妃選考

結婚が決まり、東京ローンテニスクラブのベンチで笑顔の上皇ご夫妻=1958年12月

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 上皇さまの皇太子時代の側近トップ故鈴木菊男元東宮大夫(一九〇六〜九七年)が、皇太子妃選考の経緯をまとめたメモが見つかった。「皇太子殿下は、正田美智子さまが唯一の候補となられたことを心からおよろこびになられ」と記載されている。宮内庁書陵部長に在任中の一九五一(昭和二十六)年、田島道治宮内庁長官(※注1)から旧華族の家族で就学中の女子の「調査を命ぜられた」。極秘の一人の作業だったとしている。

故鈴木菊男元東宮大夫

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 「皇太子妃殿下選考のいきさつと正田美智子さまが選ばれた過程」との題で二百字詰め原稿用紙十四枚。共同通信が鈴木氏の遺族から提供を受けた。日付はないが、遺族によると八八年二月作成の草稿があり、その直後の作成とみられる。

 専門家は皇太子妃選びの経過が詳細に記された貴重な史料としている。

 東宮大夫に就任した五七(昭和三十二)年十一月には、宇佐美毅宮内庁長官(※注2)や慶応義塾塾長を務めた小泉信三参与(※注3)ら六人で構成する皇太子妃選定のメンバーに加わった。「意外なことに、その時点においてこれはという具体的な候補は特定されていない」と記述。

 五八年に入り、「主な女子大」に皇太子妃の候補となる人物の推薦を極秘に依頼。「学習院」と「聖心女子大」から返答があった後の同年五月二日の宇佐美長官らとの会合で、聖心女子大を卒業した美智子さまが「唯一の候補として合意された」としている。

故鈴木菊男元東宮大夫が、皇太子妃選考の経緯をまとめたメモの一部。「正田美智子さまが唯一」と記述がある

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 鈴木氏は「両親はじめ御家庭環境等すべての条件において正田美智子さまほど適はしい(※注4)と思われるお方はなかった」と評価。「第二、第三の候補が具体的に協議されたという事実は無かった」と書いている。

 上皇さまは五七年八月に長野・軽井沢のテニスコートで美智子さまに出会い、その後も何度か会う機会があった。メモにはその点や、良縁だったことを「神慮」と表現している。

 五八年十一月の皇室会議で婚約することが正式に決まり、五九年四月に結婚した。当時「テニスコートの恋を実らせた」として話題になった。

 上皇さまの友人らが二人をつないだ事情の記述はない。(メモ引用部は原文のまま)

(※注1)銀行家で初代宮内庁長官。戦後の宮内府時代を含めると四八〜五三年宮内庁トップ

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(※注2)旧内務官僚。田島氏の後任で五三〜七八年宮内庁長官

(※注3)経済学者。上皇さまの皇太子時代、参与として教育担当を務めた

(※注4)「かなわしい」か「ふさわしい」

◆宮内庁選考日、明確に

<茶谷誠一志学館大准教授(日本近現代史)の話> 皇太子妃選定の詳細が書かれており大変貴重だ。宮内庁内部で妃(きさき)候補として上皇后美智子さまに絞り込んだ日が一九五八年五月二日ということが明確に分かった。前月の四月に聖心女子大から受領した書類に美智子さまの名があり、遅くともこの時点で候補として認識されていたはずだ。別の文献には、四月直後から美智子さま周辺を詳しく調べている形跡があり整合性がある。こうした動きに先立ち五一年には、鈴木菊男元東宮大夫が宮内庁長官の命で、将来に備えて極秘に対象者の洗い出しを進めていたという記述もある。上皇ご夫妻の生涯をまとめる上で欠かすことのできない史料だ。

 

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