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【社会】

「令和の平和」親友対談 半藤一利さん×中西進さん

「令和の平和」について対談する作家の半藤一利さん(左)と国文学者の中西進さん=東京都千代田区で

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 新元号「令和」の考案者とされる国文学者の中西進さん(90)と、昭和史ノンフィクションの第一人者の作家・半藤一利さん(89)は、東京大国文学科の同級生。ともに昭和、平成、令和と変化に富んだ三つの時代を生きてきた親友だ。万葉の昔から戦争体験、戦中戦後の混乱期の青春、憲法、そして平和への思い−。二人の対談は時にユーモアも交え、縦横無尽に進んだ。

◆戦火の記憶

 −八月ということで、戦争の記憶からお伺いできれば。

 半藤 向島(現在の墨田区)に住んでいて、昭和二十年三月十日の東京大空襲に遭いました。危うく死ぬところで、九死に一生で助かった。目の前でたくさんの人が燃え上がって、女の人の髪がかんなくずのようにばあっと燃えるんですね。十五歳になるころです。悲惨な光景を見てもボーッとして何も感じない。後で考えると人間性を失っていたんじゃないか。

 家を焼かれて移った茨城県の下妻では、戦闘機の機銃掃射を受けました。その場で腰を抜かしちゃって、十〜二十センチのすぐ横の所に銃弾がダッダッダと。これはおっかなかったです。操縦席で操縦士がにやりと笑っているのも見えて、許せない怒りが湧きました。

 中西 今月、終戦の日に一句詠んだ。<人を焼き日月爛(ひつきただ)れて戦熄(いくさや)む>。三百万人以上の命を奪ったこんな非道なことに太陽もただれ、月までやけどしてしまったに違いない。僕は杉並区に住んでいましたが、毎晩空襲警報が鳴る。

 半藤 鳴りましたね。

 中西 防空壕(ごう)にいたからって助かるもんじゃない。私はふてくされて寝てるんですよ。そうすると母が壕から「早く来なさい」と呼ぶ。諦めないで二時間も三時間も。これが母親というものだろうな。

 そんなふうに夜が明けて、半藤さんが住んでいた東の方を見るといつまでも燃えている。その情景を詠んだのが<名月や天涯の火は夜もすがら>。翌日、勤労動員で高田馬場の工場に行くと、まだくすぶっていて、水栓から水がぽとぽと落ちている。その中に死体がごろごろ転がっていて。さまざまな格好をして、全部爆風で裸になっちゃうんですね。

 半藤 東京大空襲は三月十日が有名ですが、中央部や城北などあと三回ものすごいのがある。終戦は新潟の長岡で迎えましたが、長岡の空襲もひどかったですね。今、長岡では慰霊のために花火を上げてますけど、見たことがない。花火嫌いなんです。焼夷弾そっくりですから。

 −中西さんは短歌を始めるきっかけは「空襲の最中の悲しい出来事」にあるそうですね。

 中西 勤労動員の工場で「メッチェン(ドイツ語で少女)がどうだこうだ」と仲間で話したりする。その子が住んでいるあたりが大空襲の被害に遭い、死んだらしいという話が広まる。それをまるで自分の恋人のごとく詠んだわけです。こどもだね。

 半藤 私は二年生で四年生の人に淡い恋をして、工場の中でデートしてるんですよ。それをおっさんに見つかって殴られた。ラブレターを宝物にして大空襲で逃げる時もかばんに入れて背負っていたんですが、衣類に火が付いたから脱いで。燃しちゃった。

◆焦土の青春

国文学者 中西進(なかにし・すすむ)さん

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 中西 八月十五日は玉音放送を工場で聞いた後、帰された。家の近くにある送電線の鉄塔のコンクリートに座ってぼやーっとしていると、カラスが寄ってくるんです。カラスも終戦を感じているのかな、人を恐れない。だから終戦の日のイメージは、黒いカラスと友人になったこと。

 −よく聞こえなかったという人もいます。

 半藤 私はよく聞こえましたね。「堪ヘ難キヲ堪ヘ」や「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」くらいは聞こえ、瞬間、日本は負けて戦争は終わったというのは分かりました。大人たちに「負けたら男は全部奴隷になって連れて行かれ、女は米兵などの妾(めかけ)になる」と聞かされてたんで、これで俺たちの人生終わりだ、人生の楽しみは早いとこ味わっておこうと思って、生まれて初めてたばこを吸ったんです。

 でもおやじが「バカモン」と。「奴隷にして全員連れて行く? どれくらいの船がいると思うんだ」「妾にしたらアメリカの女の人が許すはずないじゃないか」と。ハッと目が覚めました。

 中西 僕はずっと東京にいたから、惨めさは戦後の方が強い。女の全てが犯されはしなかったが、旧満州(中国東北部)ではそういうこともあったし、沖縄では今も起きている。男もシベリアに連れて行かれた。戦争体験は個人差がある。

 −終戦を境に価値観が変わりました。

 半藤 十月になると大人がもうみんなひっくり返りましたね。「最後の一兵まで」とぽかぽか私の頭を殴っていた人が、民主化の旗振りになった。日本の大人は当てにならない、と思った。東大は日本史学科に行くつもりだったが、周りが「皇国史観(*1)の残党が山ほどいるからやめろ」と。

 −当時から知り合いでしたか。

 半藤 正直に言うとボートの選手をやっていて「(練習場のあった)隅田川大学の卒業生」と言ってよいくらい学校に行ってない。卒論を書かなくてはならなくなり、万葉集を取り上げようとしたら、級友が「やめろ、やめろ、このクラスには万葉のおばけがいる」と。それが中西さん。やむなく岩波文庫で一番薄い「堤中納言物語」(*2)にした。

 中西 僕は勉強は何もしないで短歌と俳句に熱中していた。卒論も十一月四日から書きだして、二十日までに六百枚書いた。

◆戦後の揺らぎ

作家 半藤一利(はんどう・かずとし)さん

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 −卒業後、中西さんは研究者、半藤さんは出版界に。半藤さんの就職先は文芸春秋でなく東京新聞だったかもしれなかったとか。

 半藤 本当です。試験日が同じで会場は東京新聞が中央大、文春は東大。中大がどこにあるか知らなくて、東大なら分かるから文春の会場に行った。

 −中西さんは大学院のかたわら夜間高校の教員も。

 中西 生徒は昼間は工員で、油まみれの作業服のまま来るんです。本当によく勉強していて、必死に生きている。そういう人間のまなざしを見たことが、教師生活の原点にあります。

 −今の憲法と聖徳太子の十七条憲法との類似を指摘しています。

 中西 十七条憲法(*3)のできたのが六〇四年です。その前年六〇三年、日本書紀には「戦いをやむ」と書いてある。新羅との戦いです。一九四五年に戦争をやめて四六年に憲法をつくったのは、それをまねたとしか思えない。歴史上の政権は、ずっと十七条憲法を手本にする習慣がある。言っているのは単純で「戦争をやめよ」ということ。

 −九条は「世界の真珠」とも言っていますね。

 中西 中立とか無防備なんてことが一朝一夕にできるのかという疑問は当然あるが、すべきなんですよ。十七条憲法に「平和の基本は怒らないこと」と書いてある。深い深い身体的な英知があれば戦争にならない。

 半藤 中西先生の話は条件を一つつけて全部納得する。私は聖徳太子はいなかったと思う(笑)。今の憲法が発表されたとき、心の底から喜びました。これほど良い憲法はないと思うのですがね。ばかにする人がいますね、最近は。

 昭和史を本気で勉強したが、やればやるほど愚かな戦争をしたのは明らか。日本がなぜ侵略国といわれて東京裁判を受けなくてはいけなかったかというと、二八年のパリ不戦条約に違反したからです。満州に軍を出して、武力で自分のものにしてしまうのは、まさに不戦条約違反です。

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 中西 トルストイが「外交官の解決できなかった問題が、火薬と血で解決されるわけもない」(『五月のセヴァストーポリ』乗松亨平訳)と書いている。戦争は外交の失敗だと。

 半藤 トルストイの思想は、陸軍は勉強しなかったと思いますね。

 中西 日本が満州に権益を伸ばしていく前段階に朝鮮半島支配がありますよね。第二の朝鮮が満州なのだと。あしき拡大が根底にあるのでしょうか。

 半藤 海岸線の長い日本は守りにくい国です。明治以降、南は海軍力をつけて外で守ろうとしたが、もうひとつ、北は朝鮮半島を防衛線にしようとした。今の若い人の中には植民地にしたことを知らない人もいます。反省しないのではなく、知らないんですよ。

 中西 明治の最初は日本に大国意識はなかった。その後に出てくる。契機は何でしょうか。

 半藤 日露戦争(*4)ですね。世界五大強国の一つ、ロシアに勝ったから、今や一等国だと言いだしたんです。日本と朝鮮半島の関係は良い時代もあるが、この時代から全然だめになりだします。

 −今になってまた韓国蔑視の動きが出ています。

 中西 皮膚感覚で比べれば、(昔よりは)雲泥の差で良くなっていたと思います。広島の小学校にいたとき、韓国人の子が蹴飛ばされ、蔑視され、いわれない差別を受けていた。強く、差別への嫌悪感を持ちました。

◆元号を考案?

 −半藤さんの「令和」の印象は。

 半藤 非常に穏やかな感情を受けました。「ナカニシススム」という知らない男は、良い名前をつけたのかなと。そのナカニシという男とは別に、「万葉の鬼」の中西さんに聞きたいのですが、令和の令は、あの時代だと「りょう」と読むんじゃないですか。

 中西 そうです。

 半藤 「れい」というのは、漢音(*5)だからもっと後。あの時代は呉音(*5)だから「りょう」と読むかと思う。あえて「れい」と読んだようですが。

 中西 私は「れい」でいいと思っています。学者として言うときは「りょう」ですが。山上憶良(*6)は呉音が多いんです。やっぱり古いです。発音の仕方が。それで渡来人ではないかということになるのですが。

 半藤 その続きで言えば、あの序文を書いたのは大伴旅人(*7)じゃなくて、憶良だと思うんです。憶良は梅花の宴(*8)に参列してますし、唐の一番栄えてるときに遣唐使として学び帰ってきた人なんですよ。だから憶良が書いたものだと私は言いたい。

 中西 これは二人とも、卒論で万葉集を出してたら面白かったねえ。僕は結論はあれは旅人だろうと。「今日はいい日で風も和らいでいる。一緒に歌を作りましょう」と言っている。それに応えて「そうですね、みんなで見ましょう」という歌を作ったのが憶良です。

 和の字が昭和と重なるという声があるが、昭和をグレードアップできます。「うるわしき」ですから。令が使われるのは初めて。全く新しいものばかりではなく、和の従来の価値観に依拠しながらなじむのが、運動体の自然な形でしょ。だんだん新しくしていく。

 −令和を生きる人々へのメッセージを。

 半藤 戦争体験のあるなしでなく、過去を顧み、深い反省の上に立って、惨禍を繰り返さないよう、お互いに頑張る。それが一番大事なんだと言い残したい。

 中西 言葉の力は限界がある。だから争わないという肉体感覚、戦争のできないような精神構造が大事です。皮膚感覚としてわれわれが経験を継承していく。経験は全部別だが、恐ろしさや非人間的な事柄で共通した痛みはある。

 半藤 ところで令和の関連本がたくさん出てますね。大いに潤ったんですか。

 中西 聞いてみましょう、家内に。

      ◇

 *1 日本を万世一系の天皇を中心とする「神の国」と位置づける自国中心の歴史観。日中・太平洋戦争期、国民を動員するために用いられた。

 *2 平安時代後期の短編物語集。奇抜な趣向を交えて人生の断面を描く。1編のみ作者は判明しており、その他は作者と成立年代未詳。

 *3 推古天皇の時代、604年に聖徳太子が制定した成文法。貴族や役人の道徳規範を示した。仏教の影響を受け、「和をもって貴しとなす」から始まるなど、和の精神を基本とした。

 *4 1904〜05年、日本と帝政ロシアが満州、朝鮮半島の権益を巡り争った戦争。奉天会戦や日本海海戦での日本の勝利を経て、米国のルーズベルト大統領の仲介で講和が成立した。

 *5 漢音は奈良〜平安時代初期に中国の長安(現在は西安)地方で使われた音に基づき遣唐使らによって伝えられた漢字の音読み。例えば「行」をコウ、「日」をジツと発音する。呉音は漢音が伝来する前の音読みで、六朝時代の中国の呉の地方から伝わった。仏教用語で多く使われており、「行」をギョウ、「日」をニチと読む。

 *6 奈良時代の歌人。「万葉集」に推定作を含む長歌11首、短歌60首あまりを残す。筑前守のときに注目すべき作歌が多い。

 *7 奈良時代の貴族で「万葉集」の歌人。山上憶良との文学的な交流が晩年の多作の契機となった。漢詩文の表現を意欲的に使っている。

 *8 730年、大宰府(福岡県)長官の大伴旅人が自宅で梅の花を楽しむ宴を開いた。国内最古の和歌集「万葉集」巻5に、集まった役人らが詠んだ32首が収められている。「令和」はその序文からの引用。

      ◇

 司会=編集局次長・加古陽治/取材・荘加卓嗣、中村真暁、井上真典/写真・由木直子

◆対談の動画は、こちらからご覧いただけます。

 

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