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【社会】

<戦没オリンピアン>(後編)ベルリン大会の砲丸投げ選手 広島で被爆 「平和五輪 撮りたい」 3代つなぐ思い

 ベルリン五輪(一九三六年)で砲丸投げに出場、広島で被爆した高田(たかた)静雄さんは、判明している中で、ただ一人の被爆者の戦没オリンピアンだ。戦後、写真家でもあった高田さんは「東京五輪を見届けたい」と願っていたが、原爆症との闘いの末、開催前年の六三年十二月十日に亡くなった。彼の夢は息子、孫へと託された。きょうは静雄さんの五十六回目の命日にあたる。

ベルリン五輪後、パリで開かれた親善大会に出場した高田静雄さん。左は米国のトーランス選手(高田敏明さん提供)

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 六四年十月十日、旧国立競技場で開かれた東京五輪開会式。赤と白の制服姿の日本選手団は出場国の最後に入場した。その晴れ姿を、静雄さんの長男・敏(さとし)さんがスタンドから遺品の望遠レンズで撮影していた。選手団長の大島鎌吉さん(故人、三二年ロサンゼルス五輪三段跳びで銅メダル)は、静雄さんとともにベルリン五輪に出場した僚友。入場行進する大島さんのポケットには静雄さんの写真が入っていたという。

長男の敏さん(右から2人目)と広島電鉄で宮島に撮影に向かう高田静雄さん。両サイドは高田さんの五女と三男(高田敏明さん提供)

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 静雄さんは広島市出身。旧制広陵中学時代から砲丸投げを始め、大学には進学せずに独自に練習して競技会に出場。日本選手権は三三年から三連覇、その記録は戦後しばらく破られることはなかった。ベルリン五輪は予選落ちだったが、帰国途中、欧州各地で親善大会に出場、国際舞台で活躍した。

 帰国後は中国配電(現在の中国電力の前身)に就職。四五年八月六日朝、爆心地から約八百メートルの社屋内で被爆した。「コーヒーを飲みに行こう」と誘った同僚は屋外で被爆し死亡したという。

 静雄さんの長女千鶴子さん(当時十四歳)も建物疎開に参加するため集合中に被爆し、十八日後に死亡。敏さんも自宅近くの国民学校に通学途中に被爆し、背中にケロイドを負った。

高田静雄さんが撮影した女子高生の写真。スコップで跳ねる女子高生の笑顔がまぶしい(高田敏明さん提供)

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 静雄さんは戦後、レストランなどを経営するかたわら、敏さんと一緒に写真を学び、共に撮影に行くこともあったという。静雄さんが撮影した、陸上競技の高校生らの写真は昭和三十年代、陸上競技の専門誌に四十回にわたって連載され、六〇年のローマ五輪に合わせてローマで開かれたローマ・オリンピック写真展にもその作品は展示された。

 敏さんの長男で、静雄さんの孫にあたる敏明さん(57)もまた、写真家である。「祖父の写真には高校生が笑って競技できる時代を迎えた、希望や喜びを感じる写真が多い」と評する。

父敏さんが撮影した1964年の東京五輪開会式の写真を前に、祖父、父を偲ぶ高田敏明さん=広島市内で(加藤行平撮影)

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 オリンピアンとして、写真家として、「東京五輪を見たい」と周囲に話していた静雄さん。大型の望遠レンズを購入し、撮影を楽しみにしていたという。しかし原爆症で次第に体が弱り、六三年十二月十日、脳梗塞を併発し、五十四歳で亡くなった。敏さんも二〇〇八年六月、七十四歳で死去した。

 敏明さんは、静雄さん、敏さんの写真を整理していて、冒頭の東京五輪開会式の写真のネガを見つけた。「祖父と父はとても仲が良く、祖父は家族を大切にしていたことがうかがえる」としのび、展覧会で写真を公開した。「きっと父は祖父の思いを継いで撮影したのだろう」と推測し、「二〇二〇年を前に私ができることは祖父、父が残した写真を紹介すること」と三代にわたるバトンを受け継いだ。

文・加藤行平

 

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