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【社会】

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第1部 もう走れません(1) 円谷の悲劇

円谷幸吉の遺書のレプリカ。左は東京五輪で履いたマラソンシューズ=福島県須賀川市の円谷幸吉メモリアルホールで(岡本沙樹撮影)

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◆歓声から3年

 円谷(つぶらや)幸吉。一九六四(昭和三十九)年の東京五輪で一番の歓声と悲鳴を浴びた選手だった。この五輪を通して取材した元東京スポーツ記者の小泉志津男(82)は、そう記憶している。

 閉会式三日前の十月二十一日、陸上競技のしんがりとなる男子マラソン。最初に国立競技場に戻ってきたのは、前回ローマ五輪をはだしで制したエチオピアのアベベ・ビキラ。一台しかなかったテレビ中継車は、独走するアベベばかりを一時間余りも写し続けた。

 シューズを履いたアベベが世界記録を塗り替えゴールしてから約三分。日本人にとって、アベベ快走を超え、大会を象徴する瞬間が待っていた。

 競技場のゲートを二番目にくぐり、七万五千人の視線を一身に集めたのは、体を左右に揺らす小柄な日本人。二十四歳の円谷だった。

東京五輪マラソン代表となった(左から)円谷幸吉、寺沢徹、君原健二=寺沢さん提供

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 その十五メートルほど後ろから、白人選手が一人、獲物を追うように差を詰める。優勝候補と目されていた英国のベイジル・ヒートリー(昨夏、八十五歳で死去)。円谷はゴールまで残り二百メートルで抜き去られた。

 倒れ込むようにゴールした円谷を、小泉ら報道陣がスタンドの下で囲む。いすに座るよう促しても「このままで結構です」と気をつけの姿勢を崩さない。抜かれた場面の感想を問われるとひと言。「実力であります」

 三位。国立競技場に初めて揚がった日の丸。大会で日本勢の陸上競技唯一のメダル。そのレースは雪辱するべき悲劇だったのか。三年三カ月後、円谷は自ら命を絶つ。家族に宛てた遺書に悲痛な叫びを残して。

 「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」 (敬称略)

東京五輪後に君原健二が書いた日記。「死」「自殺」の文字が生々しく残る

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◆栄光と死 大舞台の重圧

 「死を何度も感じた。それもやすやすと自殺する俺を」。一九六四(昭和三十九)年の東京五輪男子マラソンを円谷幸吉とともに走った君原健二が、その十日後に日記につづった。

 日本人エースと目されながら、三位の円谷から遅れること三分半近く、八位に終わった。順位は受け入れていたものの「大会後も重圧みたいなものがあったんでしょうね」。七十八歳の今、静かに記憶をたどる。

 日本で開かれる初めての五輪。競技場や街角にあふれる日の丸が、選手に重くのしかかる。日記の中の君原は、大会前から、大舞台に臨むべき姿勢を何度も自問している。

 「観衆を前に晴れの栄光を取る事こそ我(われ)らの目的」「大会を祭り以上に考えぬように努力せねばならぬ」

 迷いが冷静さを奪う。ファンから届いたお守りや千羽鶴は破り捨てた。開幕後は、選手団に配られた絹のスカーフに日本選手のサインを集めて回った。あたかも自分がファンのように振る舞い、調整にも身が入らない。

 円谷、君原とともに男子マラソン代表だった寺沢徹(85)は「変なところに力が入って気持ちが空回りした」。レース後半に失速し、十五位に終わった。「海外の五輪だったら、もっと気楽に走れた」。今も「たら、れば」を考えてしまう。

 君原の目には、銅メダリストさえ「悲しげ」と映った。「国立競技場で国民の面前で抜かれた。申し訳ないことをしたという気持ちがあったのでしょう」と思いをはせる。

 レース直後、控室で目にした円谷はゼッケン「77」を着けたまま簡易ベッドで横たわっていた。互いに無言。「棄権したのか」。天井を見つめる姿に、事情を知るまでそう思い込んだほどだった。

 その円谷は、次のメキシコ五輪での「雪辱」を期し、国民の期待を一身に受ける。けがが悪化し、成績は伸び悩み、思いを寄せた女性との婚約破談も重なる。メキシコ開催年の六八年一月、首にカミソリを当てて命を絶った。

 円谷自殺の報を受けた君原の日記は三ページにわたる。「オリンピックの代表といえども個人だ。民族の期待に応えようが応えまいがどうでもいい」

 そして、こう続けた。

 「もし俺がオリンピックで三位に入賞していたら、俺がやっただろうと思って…」。自殺した円谷を自身に置き換え、その後ろには「怖」「恐」の文字を書いては消した跡。怒りと動揺が色濃くにじむ。

 君原は、二度目の五輪となるメキシコで銀メダルを獲得する。円谷の死から九カ月後の栄冠だった。「事前のタイムも悪く、期待されにくい状況だった」と振り返る。

 生死紙一重の世界をともにさまよったライバル墓参のため、毎年のように円谷の故郷、福島県須賀川市を訪れる。今回の東京五輪では聖火ランナーに選ばれ、福島の地を駆ける。

 そこで暮らす人々の胸中には、悲劇のメダリストの残影が今も息づいていた。 (敬称略)

 ◇ 

 二度目の東京五輪を控えた日本に、前回六四年大会から伝わってくるメッセージとは。第一部では円谷幸吉の人生を通じ、今日につながる当時のニッポンを、関係者の証言でつづる。

<円谷幸吉(つぶらや・こうきち)> 1940(昭和15)年5月13日、福島県須賀川町(現須賀川市)生まれ。須賀川一小、須賀川一中、須賀川高校をへて59年自衛隊に入隊。中央大経済学部の夜間部にも通った。自衛隊体育学校の選手として64年東京五輪1万メートルで6位、男子マラソンで銅メダル。67年に椎間板ヘルニア、アキレス腱(けん)を手術。メキシコ五輪開催年の68年1月9日、自ら右頸(けい)動脈を切って亡くなっているのが見つかった。27歳だった。163センチ、55キロ。足のサイズは25・0センチ。

国立競技場のゲートをくぐり、ヒートリー(英国)に追い上げられる円谷幸吉=1964年10月21日

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