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【社会】

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第1部 もう走れません(2) 不況下「陸上で日本一に」

円谷幸吉の墓を見つめる兄の喜久造=福島県須賀川市の十念寺で

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 夜の旧奥州街道を、仕事を終えた五人ほどの若者が息を弾ませ走る。未舗装の道路に街路灯はなく、頼りは人家の明かりだけ。時折、通りかかる車が砂ぼこりを激しく巻き上げ、若者たちは息も足も止めた。

 地域の駅伝大会に向けた練習。大人たちの最後尾には決まって、丸刈りの小柄な高校生がいた。七年後の一九六四(昭和三十九)年、東京五輪マラソンで銅メダリストとなる円谷幸吉だった。

 円谷の故郷、福島県須賀川市に現在も住む八歳年上の兄、喜久造(87)には、弟を駅伝チームに誘った夜が思い出深い。

 兄の練習にうらやましげに顔を見せ、ぽつんと眺めている。「おまえも走るか」と声をかけた。

 円谷は七人きょうだいの末っ子で、実家は農家。子どものころからあぜ道を走り回っていたが、競技経験はない。だが弱音を吐かず、ひたすら駅伝チームについてくる粘り強さに、一員だった杉本通(83)は強い印象を受けている。

 五七年秋の県縦断駅伝大会。その二カ月ほど前に、選手の一人がけがをし欠員が出る。「幸ちゃん、走んねえか」。未登録だった円谷に監督が水を向けると、「走ってもいいよ」。円谷は受け持った五区で区間最高記録を出してみせ、杉本らをあっと言わせた。

 「陸上、やってみるかな」。翌年春、円谷は喜久造に打ち明ける。駅伝で自信をつけ、須賀川高校の最終学年になっての陸上部入部だった。

高校時代の円谷幸吉(前列左から2人目)=畠野由美子さん提供

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 秘めた思いはあった。中学三年の同じクラスに、100メートル走で全国一の記録を出した女子生徒がいた。「おれもいつか陸上で日本一になるぞ」。女子生徒の表彰式で、円谷が淡々と語った決意は、同級生の鈴木元(はじめ)(79)の耳に今も残る。

 とはいえ、高校陸上部で本格的な練習を始めて一カ月もたつと、円谷の「目の玉が小さくなり、やつれていく」のを、喜久造は目の当たりにする。そこで弟に体力をつけようと、練習後に糖分の多い「くまたぱん」という地元の銘菓と、近くの酒店が売っていたブドウの搾り汁を買って与えるようになる。

 この十年後、円谷は遺書で喜久造に向け「ブドウ液、養命酒美味(おい)しうございました」と記す。ブドウ液は、円谷の短い選手生活を通して支えた栄養源だった。

 円谷は五八年県大会の5000メートルで三位となり、高校総体(インターハイ)に出場したが、予選落ち。東京五輪で共にマラソンを走ることになる君原健二も、北九州市の高校から1500メートルに出場したが、やはり予選落ちしている。

 喜久造によると、円谷は高校卒業後、県内有力企業の常磐炭礦(たんこう)(その後、映画「フラガール」で知られる常磐ハワイアンセンター=現スパリゾートハワイアンズ=に業種転換)で陸上を続けようと希望している。

 後に原発立地県となる福島は「本州一」と言われた炭田地帯を抱えていた。だがこのころ、石炭から石油への「エネルギー革命」が急速に進行。炭鉱不況の中、入社はかなわなかった。

 そんな円谷の目にふと、飛び込んだのが、道端の「自衛官募集」の看板。その日の食卓を、喜久造は鮮明に記憶している。

 「どんなもんなのかな」と尋ねる円谷に、旧陸軍上がりの父、幸七は厳かに答える。「若いもんは二、三年、教育を受けてくるのもええんだ」。不況にあえぐ地方から、国家を背負う競技者への一歩が踏み出されようとしていた。 (敬称略)

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