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【社会】

「娘は甲でも乙でもなく美帆です」 相模原殺傷事件遺族の手記全文

相模原殺傷事件で娘の美帆さん=当時(19)=を失った母親が、実名を公表するに当たって報道機関に寄せた手記の全文は次の通り。

8歳のころの美帆さん。写真には遺族の直筆のコメントが添えられている(いずれも遺族提供)

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◆会いたくて会いたくて仕方ありません

 大好きだった娘に会えなくなって3年がたちました。時間がたつほどに会いたい思いは強くなるばかりです。会いたくて会いたくて仕方ありません。

 本当に笑顔がすてきでかわいくて、仕方がない自慢の娘でした。アンパンマン、トーマス、ミッフィー、ピングー等のキャラクターが大好きでした。

 音楽も好きで、よく「いきものがかり」を聞いていました。特に「じょいふる」が好きでポッキーのCMで流れるとリビングの決まった場所でノリノリで踊っていたのが今でも目に浮かびます。

 電車が好きで電車の絵本を持ってきては、指さして「名前を言って」という要求をしていました。よく指さしていたのは、特急スペーシアと京浜東北線でした。

 ジブリのビデオを見るのも好きでした。特にお気に入りは、魔女の宅急便と天空の城ラピュタ。他のビデオも並べて順番に見ていました。

 自閉症の人は社会性がないといいますが、娘はきちんと外と家の区別をしていて、大きな音が苦手でしたが、学校ではお姉さん顔をして頑張っていたようでした。

中学1年生のころの美帆さん

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 外では大人のお姉さん風でしたが、家では甘ったれの末娘でした。児童寮に入っていた時、一時帰宅すると最初のうちは「帰らない、家にいる」と帰るのを拒否していました。

 写真を見せて「寮に帰るよ」と声掛けすると、一応車に乗り寮の駐車場に着くものの車からは出てきません。

 「帰らない」と強く態度で表していました。パニックを起こして大変だったけれどうれしい気持ちもありました。2年くらいは続いていましたが、それ以降は自分は、寮で生活するということが分かってきたようで、リュックをしょって泣かずに帰っていくようになりました。親としては寂しい気持ちもありましたが、お姉さんになったなあといつも思っていました。

 月1くらいで会いに行き、コンビニでおやつと飲み物を買い一緒にお庭で食べるのですが、食べ終わると部屋に戻ることが分かっていて、食べている間中、「歌をうたって」のお願いをされ、よく、アンパンマンの「勇気りんりん」とちびまるこちゃんの歌、犬のおまわりさん等、歌っていました。私の歌をBGMにしておやつをおいしそうに食べていました。自分の部屋に戻る時も「またね」と手を振ると自分の腰あたりでバイバイと手を振ってくれていました。

 泣きもせず、後追いもせず部屋に戻っていく後ろ姿を見ているとずいぶん大人になったなと思っていました。

 美帆はこうして私がいなくなっても寮でこんなふうに生きていくんだなと思っていました。

生後半年の美帆さん

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 人と仲良くなるのが上手で、人に頼ることも上手でしたので職員さん達に見守られながら生きていくのだなと思っていました。言葉はありませんでしたが、人の心をつかむのが上手で何気にすーっと人の横に近づいていって前から知り合いのように接していました。皆が美帆に優しく接してくれたので人が大好きでした。人にくっついていると安心しているようでした。

 美帆は一生懸命生きていました。その証しを残したいと思います。怖い人が他にもいるといけないので住所や姓は出せませんが、美帆の名を覚えていてほしいです。

 どうして、今、名前を公表したかというと裁判の時に「甲さん」「乙さん」と呼ばれるのは嫌だったからです。話を聞いた時にとても違和感を感じました。とても「甲さん」「乙さん」と呼ばれることは納得いきませんでした。ちゃんと美帆という名前があるのに。

 どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした。

 家の娘は甲でも乙でもなく美帆です。

 この裁判では犯人の量刑を決めるだけでなく社会全体でもこのような悲しい事件が二度と起こらない世の中にするにはどうしたらいいか議論して考えていただきたいと思います。

 障害者やその家族が不安なく落ち着いて生活できる国になってほしいと願っています。

 障害者が安心して暮らせる社会こそが健常者も幸せな社会だと思います。

 2020年1月8日

 19歳女性美帆の母

 

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