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【社会】

相模原殺傷 12遺族の供述調書(要旨)

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で発生した殺傷事件の裁判員裁判で、検察側は15日、犠牲となった入所者19人のうち12人の遺族の供述調書を法廷で朗読した。かけがえのない肉親に寄せる遺族らの思いが込められていた。要旨は次の通り。

▼美帆さん(19)の母

 会話でのコミュニケーションは取れなかったが、怒ったり笑ったりできた。怒った時は手をかんだり、トイレに行きたい時は私の肩をトントンとたたいたりして、普通の人と同じように自分の意思を伝えようとしていた。

 最後に会ったのは(事件二日前の)七月二十四日。仕事の合間に美帆の部屋を訪れると「キャー、キャー」と喜んだ。

 この日は、職員と打ち合わせがあり、十分ほどしか会えなかったが、打ち合わせを終えて部屋をのぞき、美帆に手を振ると、音楽を聴き、首にタオルを巻いてこちらをじっと見ていた。いま思えばもっと一緒にいれば良かった。

 女手一つで育て、生まれてから二十四時間、三百六十五日、忘れたことはない。美帆があなた(植松被告)に何をしたの。憎いなんて言葉では言い表せない。

▼女性(40)の母

 障害があっても私たちの手で何があっても育てていこうと大切にしてきた。やまゆり入所までの三十六年は、ほとんど娘に時間を費やしてきた。娘には多動とけいれんがあり、先に寝てしまうと危険なものを触るのではと、安心して睡眠を取ったことはなかった。

 人なつっこくてかわいい存在だった。私たちの後ろから抱きついてきたり、夫に好きなコーヒーをねだり、飲ませてもらうと満面の笑みを浮かべていた。会話ができなくても娘を囲んで楽しく生活していた。体力的に生活すべてで手助けすることができなくなり、死後を考えて施設に入れた。

 (事件後に遺体と対面した際)表情にそのまま苦痛が残っている顔で、痛かったんだろうなと想像すると涙が止まらなかった。購入した霊園のお墓に娘が先に入ることになるとは想像していなかった。

▼女性(26)の母

 愛嬌(あいきょう)があり、三歳ごろまではほかの子と変わらないほどおしゃべりだった。「自閉症」で今は話すことができないが、欲しいものがあると腕を引っ張るなど、愛らしい姿を見せてくれた。

 車で園に行くと、いつもどこかに連れて行ってくれると思うらしく、ドアノブをつかんで「ドライブに行こう」とアピールしてきた。本当にかわいかった。

 なぜあんないい子が死んじゃったの。いつもセーラー服を着たお気に入りの写真を持ち歩いている。今でも見るたびに涙が出る。

 (娘の)ほほは冷たく、首のガーゼに血がにじんでいた。「怖かったでしょ。痛かったでしょ。ママが来たよ」と頭をなでた。植松(被告)は知らない人だった。十九人殺すなんてひどい。重度障害はあったが、個性を持ち一生懸命に生きてきた。日本でできる一番重い刑にしてほしい。

▼女性(70)の兄

 妹は私より十六歳年下だった。昭和三十九(一九六四)年に入所。五十年間、月に一回会いに行った。園に着くと、いつもにこにこした笑顔でそばにやってきた。腕を引っ張り、「散歩に連れて行ってほしい」とねだってきた。私は車でドライブしたり、園の周りを一緒に歩くなどした。帰ると伝えると、さみしそうな顔をしてまだいてほしそうな表情を浮かべた。「もう少し散歩してから、帰るからね」と伝えると、コクリとうなずいてくれた。

 豊かな表情の持ち主だった。「ありがとう」など短い言葉は言うことができ、聞いた時はいとおしい気持ちになった。死んだと聞いた時はショックだった。悲しい気持ちで毎日を過ごしており、体調も崩して入院した。犯人も当初は優しい気持ちを持っていたはず。どうして凶行に及んだのか知りたい。

▼女性(60)の弟

 知的障害があり、コミュニケーションが困難だったが、うれしそうな表情や渋い表情を見せた。食パンやサケが大好きで、嫌いな物は口に入れようとしない頑固な性格も。着替えや食事、排せつは介助が必要だが、立ったり座ったり、ゆっくり歩くこともできた。

 母が亡くなってから、父は月一回、園の保護者会に参加。高齢だが、姉と面会し、健康のことなどを心配していた。最後に会ったのは(事件約二週間前の)七月十日。父は名前を呼んで「元気かい、体調はどうだい」と話し掛けた。姉は言葉は返さないが、父に寄り添い、父にとっては肌で姉を感じることができるのが幸せだったのだと思う。

 父は「何も知らない青二才に殺され、ヒトラーを思い起こさせる思想は許せない」と話していた。犯人は実社会に二度と出てはいけないと思う。厳罰を願う。

▼女性(65)の妹

 耳が聞こえずしゃべれないが、ごはんを食べることなどは身ぶり手ぶりで理解していたし、写真を見せると、写真の場所に出かけることを理解していた。

 若いアイドルやレースの服などが好きだった。外で買い物をして園に帰る時、大荷物だったが、姉は「妹に買ってもらったの」と言っているようで本当に幸せそうだった。姉の笑顔に救われ、頑張れた。生活の張り合いだった。

 人が好きでどんな人でも嫌うことなく、職員や他の入所者のことも好きだった。どの家族が面会に来ても、人なつっこく近づいて指をさして面会に来た家族を案内していたと聞いた。

 植松(被告)は、障害者という枠にあてはめて殺した。施設に勤めていたならば、入所者にいろんな個性があることを知っていたはず。

▼女性(46)の母

 一定の会話はするが、意味のある言葉はなかった。でも、身ぶりで表現するのでコミュニケーションは取れていた。感情表現が豊かだった。人見知りで知らない人に会うと拒否して、園でも新しい職員に慣れるまで時間がかかった。

 中学に上がると、バスや電車で遠くに行くことが楽しみになった。迎えに行くと、「なんで迎えに来るんだ。まだどこか行きたかったのに」というしぐさをした。そのしぐさが本当にかわいかった。

 最後に会った日。いつものように「ママ、おはよう」とにこにこしてくれた。職員にマニキュアを塗ってもらったようで、自慢するように指を差し出した。ファッション雑誌を見たり、かわいい服を着たりするのが好きだった。夏祭りで花柄の浴衣を着るのを楽しみにしていた。もう一度浴衣を着せてあげたかった。

▼女性(65)の母と弟

 障害があっても気持ちの優しい子だった。電車やバスで小さい子を連れた人や高齢者を見ると、席を譲っていた。弱い人の心に寄り添うことができた。長年一緒にいたので、何を考えているのかわかった。

 二〇〇九年に脳出血になり右半身不随となった。筋肉も衰えたため、左足も動かせなくなった。面会に行くと、唯一自由の利く左手で手招きしたり、小指で母親の安否を気にかけたりしていた。全く意思疎通ができないわけではなかった。(事件の当日、安否の書かれた名簿を見ると)「×」の横に「午前五時三十九分死亡確認」と書かれていた。何かの間違いじゃないかと思った。

 (遺体と)対面した際には、寝ているようだった。頭をなでてみて、本当に死んだと分かった。居たたまれない気持ちになり、体に力が入らなかった。

▼女性(35)の父

 保育園や幼稚園には入れず、専業主婦の妻一人で介助をしていた。私も早期退職して手伝い、みんなで海や山にドライブに行った。(妻の死後、入所している)娘に月に一回会いに行き、いつも食堂に行っていた。私が娘の手を握って話しかけたり、娘を抱っこして車いすに乗せ、散歩したりすると娘は笑顔で喜んでいた。

 (二〇一六年)七月九日に会った。私は(病気の)後遺症で右腕に力が入らず、抱きかかえられないので一緒に散歩できなかった。帰り際、娘はさみしそうな顔をしていた。この顔が、私が見た最後の姿だった。

 一緒に過ごす時間をなくしてしまった。娘なりに一生懸命生きていた。(植松被告に)娘の人生を終わらせる権利はない。「障害があるから」というそんな理由で殺された。その価値観を押しつけるな、と言いたい。

▼女性(55)の弟

 姉は言葉による意思疎通はできなくても、母がご飯を食べさせるとくしゃくしゃの満面の笑みを見せ、嫌なことがあると手を払いのけて拒否反応を示すなど、コミュニケーションはとれた。

 水のことを「と」と発音し、水を持って行くとおいしそうに飲んでくれた。他人にはわからないかもしれないが、家族や私、姉さんには理解できる大切な合図だった。

 (遺体と対面した時)姉さんの恐怖や痛みを考えると涙が止まらなかった。まだ生きているのではと思えた。信じられなかった。

 植松(被告)が間違った思考を頭にとどめるのではなく、行動したことで、姉さんはいなくなった。まだ生きたかっただろう、痛かっただろう、怖かっただろう、と思う。自分勝手な理想で姉さんを奪った植松(被告)を許せない。

▼男性(41)の母

 あの日から心にぽっかり穴があいたまま。一緒に過ごした日々は本当に幸せだった。今後、どう生活していいのかわからない。

 初めて授かった子ども。うれしくて涙が止まらなかった。ただ、ダウン症候群で三歳くらいまでしか生きられないとわかり、不安で仕方なかった。三歳の誕生日を迎え、生きていてくれたことがうれしく、その日は家族皆でケーキを買って祝った。二十歳を過ぎたころから老化が始まると言われたが、元気だった。

 私が腰の骨を折って(短期入所が増え)、事件前にも五日間の短期で入所した。(事件の日に施設に呼ばれ)亡くなった事実を告げられ、その場に泣き崩れた。施設に入所しなければ、こんなことにはならなかったという後悔しかなかった。手のかかる場面はいっぱいあったが、いつまでも成長を見守ることができて幸せだった。

▼男性(43)の母

 私と離れて生活していても、楽しそうに生活し、いつも笑顔を見せてくれていた。今でも施設で生活していると錯覚する。息子の死はまだ受け入れ切れない。単語二つくらいを組み合わせて意思疎通ができた。一歳で脳性まひと診断された。医者は「衰弱で命を落とすこともある、長生きできない」と言った。「死ぬ前提で話して」と怒りを抱いた。「死なせてなるものか」という反骨精神で息子を育ててきた。

 (遺体と対面し)「今までありがとう。生まれてきてくれて幸せだったよ」と話しかけた。皆さんに「大変だね」と言われるが、大人になってもずっと純粋で、ずっと親子でいられる。最後に会ったのは七月十日。食堂で好きなものを注文させ、外ではツバメがえさを運んでいて興味津々だった。そのことを思い出し、悲しい気持ちに襲われる。

 

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