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【社会】

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第1部 もう走れません(3) 黙々と2人きりの特訓

円谷幸吉の功績をたたえ作られた石碑=福島県郡山市の陸上自衛隊郡山駐屯地で

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 宿舎の前で、見慣れない若者が縄跳びをしていた。ボクサーのような軽快な動きに目を奪われる。新入りの隊員らしい。

 「何のスポーツをやるんだ」「マラソンです」「一人か」「一人です」

 一九五九(昭和三十四)年初秋、自衛隊郡山駐屯地(福島県郡山市)。勤務していた斉藤章司(86)は、五年後の東京五輪マラソンで銅メダルを獲得することになる円谷幸吉と、初めて言葉を交わした場面を思い起こす。

 円谷は高校卒業後、実業団で陸上競技を続ける希望がかなわず自衛隊に入隊、実家からほど近い郡山駐屯地に配属された。この年五月に東京五輪開催が決まっている。

 しかし当時の自衛隊で走ることといえば、訓練としての持久走。陸上部はない。

 「じゃあ一緒に走ってやろうか」。当時二十六歳で、野球が趣味の斉藤が声をかけ、二人は敷地内を走りだす。別れ際、斉藤が名前を聞くと、「はい、円谷二士(二等陸士)です」。直立不動の姿勢から覇気のある答えが返ってきた。

 それから毎日、斉藤の個室を円谷がノックするようになる。「練習していただけませんか」。苦しいからいやだ、という本音をのみこみ、斉藤は付き合い続ける。円谷は夕方の練習に飽き足らず「朝練やりませんか」。斉藤も鍛えられ、いつしか二人は青森−東京駅伝の県代表選手を目指すようになっていた。

 朝夕、黙々と走り続ける二人はすぐに評判となる。斉藤は人事課長から呼び付けられている。

 「せっかく入った新隊員を夜も朝も走らせ、辞められたらどうするんだ」

 自衛隊は発足してからまだ五年。前身の警察予備隊、保安隊から拡充中で、新隊員は貴重だった。心配する人事課長に、斉藤は「逆なんだ」と釈明に追われた。

円谷幸吉と、郡山駐屯地時代の練習相手斉藤章司(左)=斉藤さん提供

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 円谷自身も、楽しく走っていたわけではない。「強くなろう、速くなろうと、もののけに取りつかれたようになっていた」と、斉藤は当時の円谷を振り返る。

 同時に、練習中も円谷の上官への過剰ともいえる気遣いを感じている。斉藤より体一つ分、遅れて走り、前に出ない。「ここからはフリーだ」と声をかけないと、スパートをかけない。

 斉藤は円谷の実家を訪れ、規律へのこだわりに合点がいく。円谷の父、幸七は旧陸軍上がり。夕方、軍隊の班長のように、玄関前に幸吉ら子ども七人を並べて用事を申しつけていた、と近所で聞いた。

 自衛隊とそっくり。「上から命じられたことは絶対」という円谷の原点を、斉藤は実家に見ている。東京五輪後には、そのこだわりが円谷を縛ることになる。

 六二年四月、自衛隊が二年半後に迫った五輪に向け、選手強化に本腰を入れる。東京の自衛隊体育学校に「特別体育課程」が設けられ、円谷も選抜された。

 斉藤との二人きりの練習には限界が見えていた。そのタイミングでの強化策に、斉藤は「円谷は東京五輪のために生まれてきたんだ」と実感。自身も選抜されたが、辞退した。

 円谷は、国が整えた環境の中で「任務達成のために走る」(斉藤)ことになる。 (敬称略)

<自衛隊> 前身の警察予備隊が1950年8月に発足。同年6月に勃発した朝鮮戦争に在日米軍が投入されたことに伴い、連合国軍最高司令官だったマッカーサーが当時の吉田茂首相に隊員7万5000人で創設を指令した。国内治安維持を目的としたが、戦力不保持をうたった憲法9条との整合性を巡り「軍隊か、警察力か」の議論が起きた。52年4月に日本が主権を回復すると、同年10月に保安隊に改組され発足。54年7月には防衛組織として自衛隊となる。自衛官は2019年3月現在、22万6547人。

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