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【社会】

相模原殺傷 7遺族の供述調書(要旨)

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件の裁判員裁判で、検察側は16日、犠牲となった入所者19人のうち、前日の12人に続き7人の遺族の供述調書を法廷で朗読した。要旨は次の通り。 

▼男性(66)の兄

 七歳年下の弟だった。ほとんど言葉は話せなかったが、表情豊かで身ぶり手ぶりで気持ちを伝えようとしていた。「あー」「うー」といった単語で何をしたいのか意味が伝わった。他の人の言葉は理解しているようで、うれしそうにしたり、露骨に嫌な顔をすることもあった。

 ラジオのチューニングが大好きで、チャンネルを回し、きれいな音が出ると、とてもうれしそうだった。分解も好きで、面会に行くと「お土産でラジオを持ってきてくれたでしょ」と言うように「あー」と声を出し、せがんできた。

 最後に会ったのは二〇一六年七月十日。「また来るからな」と帰った。この日が最後になるとは予想もしなかった。植松(被告)と面識はない。決して許せない。ただ、精神障害者だった場合は、憎みきれる自信がない。

▼別の男性(66)の姉

 弟は生まれて初めての正月に肺炎で高熱が出て症状が悪化し、脳性まひと診断された。言葉はほとんど話さないが、「あー」「うー」と一生懸命声を出していた。歌が大好きで家はいつも歌が流れ、弟は身ぶり手ぶりを交えて「あー」「うー」と歌って家族を楽しませた。弟の笑顔が見たくて、家の中は楽しい会話があふれていた。

 ドライブが好きで、網膜剥離で目が見えなくなってからも、景色が見えているかのように体を揺すって楽しんでいた。果物が大好きで、サクランボ狩りやモモ狩りのバス旅行に行った時は一緒に食べた。今度どこに行こうか、何をしようかと考える幸せを奪われた。

 犯人は障害者の人権を無視し、まるでゲームのように尊い命を奪った。弟の苦痛以上のものを与えたいが、やり場のない怒りをどこにぶつけたらいいのか。

▼男性(55)の妹

 兄は生後数カ月のとき高熱が続き、それが原因で脳性まひと診断された。体が不自由で会話はほとんどできなかったが、私たちの言葉はある程度理解していた。子どものようにシュンとした表情を見せることもあり、家族はその様子を「かわいい」と感じていた。

 小学校には通えなかったが、先生が自宅で勉強を教えてくれた。そのおかげで数字やひらがなを理解し、紙に「りんご」と書けば、冷蔵庫からリンゴを取ってきたり、紙に家族の誕生日の日付を書くと、誕生日の人を指さしたりできた。

 父の帰りが遅いと大声を上げるなど、時間を理解し、時間にうるさかった。テレビの歌番組をまねて歌ったり踊ったりすることもあった。園の職員から「正義の味方のように他の利用者の面倒を見てくれる」と言われ、うれしい気持ちになったことがある。

▼男性(65)の兄

 やまゆり園の職員から「弟が亡くなった」と聞いた時は、ショックで心が壊れないようにするため、感情がストップしたかのような感じだった。

 面会室のベッドに寝かされた弟の顔はきれいだった。ほほに触れたが、それほど冷たくなかったので、寝ているだけではないかと思い、名前を呼び掛けたが、反応はなく、死んだのだと実感した。

 「いー」「いや」など簡単な単語は話せた。まだ小さかった私の娘を見ると、呼び掛けてくれた。娘が大人になってからも目を細めてくれる、心優しい弟だった。

 言葉は不自由でも、身ぶり手ぶりで気持ちを表現するので理解できた。動物が好きで特にイヌが好きだった。幼いころに一緒に過ごせず、時間を取り戻そうとしていた直後の事件で悔しい。

▼男性(49)の母

 幼い時から情緒の不安定さと知能の遅れを抱えていて手はかかったが、私たち夫婦にとって初めての子。かけがえのない子だった。

 夫と囲碁を打つことや私と外出するのが大好きだった。碁を打つ時は真剣そのもので障害があるとは思えなかった。成人になり、本人の希望通りパンチパーマでスーツを着て写真を撮った時はうれしそうだった。

 親が亡くなった後も安心して暮らせるように入所を決断した。誕生日に電話して「おめでとう。いくつになった?」と聞くと「四十九だよ」と。「みんなと仲良くね」と言うと、照れくさそうに「もういいよ」と言って職員に電話を渡した。それが最後になった。

 亡くなったと聞き、頭が真っ白になった。息子が生きているだけで私は幸せだった。必死で生きてきたあの子の人生は何だったのか。答えが見つからない。

▼男性(67)の兄

 最後に会ったのは七月十日。二十分ぐらい身の回りの世話をした。帰る時「また来るからよ」と言うと、弟は車いすから私を見て右手を上げて笑顔であいさつした。職員が「一番いい顔」と言ってくれた。元気な最後の姿になるとは夢にも思わなかった。

 弟には生まれつき知的障害があったと聞いたが、両親にかわいがられた。弟は父のまき割りや草刈りを手伝っていた。自分は家を離れたが、弟は両親と家事をし、一緒に家を守ってくれていた。草刈りがうまく、入所してからは職員にやり方を教えていたと聞いた。

 弟がどれだけ怖い思いをしたのか。無念だったのは間違いない。本当に手がかかることもあったが、弟を人間として見なかったことはない。どんな人間でも命は命。どんな罰を受けても償えないが、とにかく償ってもらいたい。

▼男性(43)の母

 息子は姉よりハイハイや歩くのが早かった。三歳の時、話さないことが気になり、自閉症の傾向があると診断された。じっとしているのが苦手だった。「あー」「うー」としか言えず、家族はわかっても、他人とコミュニケーションを取るのは難しかった。

 特別支援学校を卒業後、社会福祉法人の工房に通い、働くことを学んだ。少額ながら給料をもらうなど、社会貢献をする姿がうれしかった。

 事件があった七月に会いに行き、楽しく過ごした。大好きなアイスを食べ、ジュースを飲む姿に癒やされた。「じゃあね」と告げると、部屋に戻っていった。それが最後の姿。

 植松被告の考えはどこから生まれたのか。採用時の志はどこに行ったのか。自分がしたことに満足しており、一生許すことはできない。息子を返してほしい。

 

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