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【社会】

阪神大震災25年 母に感謝、私も前へ 遺族女性、語り部に

阪神大震災から25年を迎え、追悼会場で竹灯籠を見つめる子どもたち=17日午前5時47分、神戸市中央区の東遊園地で

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 阪神大震災から二十五年。その歳月を包み込むように、鎮魂の静けさが夜明け前の街に広がった。十七日午前五時四十六分、目を閉じ、固く口を結んだ人々の表情を竹灯籠の明かりが照らす。追悼の日を迎え、胸の内はさまざまだ。「受け入れに時間がかかった」「苦しかった日々を思い出す」。時は流れ、元号も平成から令和に変わった。記憶は次世代に刻まれていく。変わらぬ思いとともに。

 「お母さん、生き方を教えてくれてありがとう」。母の奥山敦子さん=当時(49)=を亡くした兵庫県明石市職員の秋末珠実(あきすえたまみ)さん(47)は、神戸市中央区の東遊園地にある「慰霊と復興のモニュメント」を訪れ、銘板の名前を何度もなでた。

 働く母だった。司法書士として神戸市中央区に四階建ての事務所兼自宅を構え、仕事に家事に、子育てに奔走していた。勉強熱心で、明るくて。人の相談に親身に乗る姿が目に焼き付いている。

 当時、珠実さんは二十二歳の看護学生。母娘はいつも、三階の二段ベッドで一緒に寝ていた。震災前々日の一月十五日のこと。「一週間前から寝られへん」とこぼした珠実さんに、「寝る場所を変えてみたら」と敦子さんが助言した。

 それまでは珠実さんが上段、敦子さんが下段だった。十六日夜、敦子さんが四階に上がり、珠実さんはベッドの下段へ。その日は、すっと寝られた。

 翌日未明。一、二階がつぶれ、四階も折れるように崩れ落ちた。三階の天井から、夜明け前の真っ暗な空が見えた。がれきに埋まった両親は近所の人が重機を使って出してくれた。父は無事だったが、母は助からなかった。

 「寝る所を変わってなければ…」。自分を責めた。夢でもいいから母に会って謝りたい。長い間、震災の話を口にできなかった。

 学校を卒業し、明石市の保健師となった。「やりたいことを見つけて自立しなあかん」「女の人も資格を取って働いて、たくましく生きないとね」。敦子さんがよく言っていた通り、仕事にまい進した。

 二〇一一年、東日本大震災の被災地、仙台市若林区の避難所に派遣された。被災者の手を握り、津波の恐怖や悲しみに耳を傾ける。

 「阪神・淡路の時は助けられてばっかりだったけど、東北でお返しできた」

 そう感じたことが、一歩を踏み出すきっかけになった。明石市の中学校で東北と阪神・淡路の経験を語り、人と防災未来センター(神戸市中央区)の語り部にも登録。震災を伝えていく決意が芽生えていった。

 二十五年の朝に思う。一緒に過ごした時間より、失ってからの方が長くなった。もうすぐ母の年齢になる。でも、さみしくはない。「お母さんの生き方が、私の身についてる。お母さんの子で良かった」

 

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