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【社会】

阪神大震災25年 「この場所で」母との約束 実家に戻り、すし店守る

上野好宏さんは今も、母の美智子さんが手書きした値段表を店に飾っている=神戸市東灘区で(横井武昭撮影)

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 遺族代表で追悼の言葉を述べた上野好宏さんは、両親が愛したすし店を今も守り続けている。「家族皆で一日一日頑張っていきます。遠くから見守って」。震災の日と同じ夜明け前の空に語りかけた。

 二十五年前の一月十七日。大学四年だった上野さんは東京の下宿先から母の美智子さんに電話した。話をするのはいつも、日付が変わって店の片付けが終わるころ。年末年始に帰省できなかったことを「ごめん」と伝えたが、ふと、足を骨折していた母が自宅の一階で寝ていたことを思い出した。「そろそろ二階でお父さんと寝えへんの」。母は「お父さんが風邪気味やから、今日は下で寝るわ」と言った。

 その数時間後、母は震災で崩れた二階の下敷きになって亡くなった。なぜあの時、二階で寝るようにもっと強く言わなかったのか。今も後悔が残る。

 店の「灘寿司(ずし)」は、父の数好さんが一九七四(昭和四十九)年に創業した。母は女将として店に立ち、いつも明るく切り盛りしていた。震災後の春に食品会社に就職し、関東で働き始めた上野さんは、損壊を免れた店を再開した父に、これからどうするのか聞いた。「お母さんが亡くなったこの場所を離れられへん」。その言葉を聞いて神戸に帰ることを決め、震災の二年後に店を継いだ。「お父さんに何かあったら帰ってきたって」。生前に母と約束していた。

 魚のさばき方や包丁の使い方を毎日父に教わり、職人として一人前になったが、三年前に店を移転した後、父はがんで亡くなった。

 遺族代表を依頼されたとき、自分には重すぎると感じた。「神戸にいなかった自分は、震災を経験していない」。だが、いつも前向きだった母なら「受けたら」と言うと思い、考え直した。

 四十七歳。母が亡くなったのと同じ年齢になった。三人いる娘は、母の名前から一文字ずつもらって名付けた。妻と二人で切り盛りする店の壁には、母が書いた値段表を今も飾っている。「しそ巻150」「はまち300」。丁寧な文字に、母がいつも見守っていてくれる気がする。

 追悼の言葉は唇をかみ、まぶたを閉じて語った。「目を閉じるといつも『よっちゃん。頑張り、頑張り』っていうお母さんの声が聞こえます」。そして、「お母さん、いつも支えてくれてありがとう」と涙をこらえて思いを伝えた。 (横井武昭)

 

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