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【社会】

<取材ファイル>兄眠る故郷 遺骨戻らず 激戦地・硫黄島 慰霊続ける86歳

戦没者追悼式で、慰霊碑に花を手向ける木崎久さん

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 漂う硫黄の臭い、もやに浮かぶ摺鉢(すりばち)山…。生まれ故郷の硫黄島に降り立った木崎久(ひさ)さん(86)=東京都府中市=は車いすの上で肩を丸め、目を閉じた。太平洋戦争の激戦地・硫黄島。兄・菊池朝夫さん=享年(17)=は島に残り、戦死した。遺骨は今も見つからず、木崎さんら元島民の帰還も実現していない。 (岡本太)

 十六日、同島で行われた都主催の戦没者追悼式。同行記者団に参加し、初めて島に渡った。木崎さんは遺族として三年ぶりに参列していた。式典後、摺鉢山を見上げる碑の前で、木崎さんに声を掛けた。

 「慰霊はもう十回目くらいかな」。しっかりとした口調だった。一九四四年、強制疎開で島を離れた時には十一歳の少女だった木崎さん。年齢を重ね体の自由がきかなくなり、今回は初めて車いすでの来島となった。それでも「まだまだ。これからも島には来ますよ」。その小さな体に宿る意志の強さに胸を打たれた。

 「ガジュマルの木があちこちにあってね。パイナップル、バナナ、サトウキビと本当に豊かだった」。当時の暮らしを尋ねると、笑顔になった。「学校帰りにサトウキビをもぎって食べたのよ。だから道沿いから、どんどん無くなってね」

 木崎さんは十人きょうだいの九番目。七番目で六つ違いの朝夫さんは、頼もしい兄だったという。「体が強く、けんかで負けるのを見たことがない」。皆で仲良く風呂に入ったことを覚えている。

 それが一九四四年七月、戦況の悪化に伴い、木崎さんら約一千人の島民は本土に強制疎開。一方、朝夫さんら百三人の島民は島に残され、地上戦に動員された。「俺が島を守るから、東京に行け」。家族のうち一人とどまることになった朝夫さんは、家族にそう話したという。

 「硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ」

 四五年三月二十一日。木崎さんは本土の疎開先で、部隊の玉砕を伝える大本営発表を聞いた。

 「あさおー、あさおー」。泣きながら兄の名を呼ぶ母。「死なせてしまった」。つぶやいた父を見上げると、眼鏡の内側がぬれていた。「両親のあの表情は絶対に忘れられない。悲しさ、悔しさは今もそのまま」。木崎さんの肩が震えた。

旧日本軍が構築した地下壕。当時使っていたとみられる木箱などが残る=いずれも東京都小笠原村の硫黄島で

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 島は戦後米国の統治下となり、六八年に日本に返還された。旧日本軍兵士の遺骨の約半数は今も見つかっていない。朝夫さんの遺骨も島に眠ったままだ。元島民たちの帰還もかなわない。国は厳しい気象や不発弾が多く残ることを理由に「定住は困難」としている。

 「国や都が、元島民の帰還を本気で考えているとは思えない」。約六時間の滞在を終えるころ、木崎さんが言葉をしぼり出した。「島を離れたあの日から、私の心はずっとここに置き去りなんです」

<硫黄島(東京都小笠原村)> 都心から南へ約1250キロにある火山島。面積は約24平方キロメートルで、品川区ほどの広さがある。1945年2月19日に米軍約6万人が上陸。旧日本軍は総延長18キロともされる地下壕を張り巡らし、1カ月以上にわたって戦闘を繰り広げた。旧日本軍約2万3000人の95%が戦死。米軍側は約6800人が犠牲になった。返還後は自衛隊が常駐し、米空母艦載機の訓練も行われている。民間人の立ち入りは原則認められていない。

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