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【社会】

きっかけはとんかつ 元ファミレス社員が包丁研ぎの講師になるまで

自著を前に、包丁研ぎから得た経験や喜びを語る豊住久さん=東京都豊島区で

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 切れない包丁にイライラしたこと、ありませんか。そんな人に、独学で身に付けた包丁研ぎを教える男性がいる。講座は常に満席で、その人気ぶりに本の出版も決まった。調理とは縁がない職場からスタートした男性の会社員人生でピンチを救ったのも、包丁研ぎだった。 (中沢佳子)

◆「衣がいつも取れている」 客の苦情で

 「角度、力加減、包丁の材質と砥石の相性。いろんなコツがあるんだ」。東京・巣鴨の瀟洒なマンションの一室で、自称「B級家庭包丁研ぎ講師」の豊住久さん(69)が語り出す。自宅で開く講座に、全国から切れ味の悪い包丁を手に人々が集う。それらがトマトはごく薄く、魚は身崩れせず、鶏肉は皮と身が離れず、すっぱり切れるようになる。

 豊住さんは高校卒業後、空調や給排水設備などの工事会社に就職したが、オイルショックの余波により二十七歳でリストラに遭った。経験を生かせる職を探しても見つからない。「いっそ違う世界に飛び込んでみるか」と求人誌を見て訪れた大手ファミリーレストランチェーンに採用された。

 店の冷蔵庫や調理器具、空調などの維持管理を経て営業へ。そこで包丁研ぎに出合った。きっかけは「とんかつの衣がいつも取れている」という客の苦情。食べやすくカットする際に衣がはがれてしまう。

 原因が分からず、なじみのとんかつ店の店主に相談すると、切れ味の悪い包丁を使うからだと指摘された。「刃物は切れるのが当たり前だと思っていたから、驚いたよ。水道工だったおやじが、毎日カンナやのこぎりを研いで手入れするのを見て育ったしね」

◆合羽橋通いで技術習得するも…左遷

 セントラルキッチン方式のファミレスで包丁を使う場面は少ないと思いきや、添え物のトマトやネギを切ることが多く、切れない包丁に手を焼く店が相当あると分かった。しかし、研げる人も教えられる人も社内にいない。自分でやろうと決断し、調理具などの専門店が立ち並ぶ東京・合羽橋に通い詰めて職人が研ぐ様を観察した。

 試行錯誤の末、技術を会得。調理スタッフに教えて回り、感謝された。ところが突然、異動になった。「誰もが嫌がる、店舗家賃の値下げ交渉担当になった。左遷だよ」。視察の際、帽子をかぶらず厨房へ入ってきた社長を一喝したのがまずかったらしい。

 貸主とのやりとりに心をすり減らしていたある日、包丁研ぎが助けてくれた。交渉が難航していた貸主宅を訪れた時、貸主の妻が雑談で「旅先で買った思い入れのある包丁が切れなくなって」とこぼした。その場で砥石を借り、切れ味をよみがえらせると大喜び。数日後、貸主から値下げに応じると連絡があった。

◆講座盛況 男性がはまっている

 二〇一〇年に定年を迎え、ある時、特技や知識を教えたい人と学びたい人を結ぶサイト「ストアカ」をテレビ番組で知った。自分も何かしたいと思いついたのが、包丁研ぎ。切れない包丁を持て余している人は少なくないと考えた。

 一四年に開講後、受講者は千四百人を超えた。四十〜六十代の女性が中心も「はまるのは男性だね。釣った魚をすぐさばきたい人、道具にこだわる料理男子、奥さんに『研ぎはあなたの仕事』と命令された人。いろいろだ」と豊住さん。その盛況さに本の出版を提案された。包丁の構造や種類、研ぎ方の解説に豊住さんの思いを添え、二十八日に「包丁研ぎのススメ」(税別千四百円)が世に出る。

 切れ味が戻った包丁に感激する受講者の姿に、豊住さんも自信を得ている。「買い替えるのは簡単。でも、自分で手入れできるようにするのが、その人にも道具にも大切だと思うよ。包丁研ぎは私の生きがいだ」

 (2020年1月26日朝刊特報面に掲載)

 

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