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【社会】

<東京2020 祝祭の風景> 第3部 義足の可能性(4)走れる喜び 豊かな人生への一歩

ランニング教室の最終日、山本篤(左)と義足で走る多羽田雅孝=千葉県浦安市で

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 義足の初めの一歩は、転ぶ恐怖を乗り越えるところから。「初めはみんな怖い。僕は今でも少し怖い」。陸上男子走り幅跳びのパラリンピック銀メダリスト、山本篤(37)は言う。

 バネのように弾む競技用義足はバランスを取るのが難しい。反発力を制御できず、体が不安定に跳ね上がる。滑らかに走るには時間がかかる。

 昨年十月、ドイツの世界的な義肢装具メーカーが毎年開いている競技用義足のランニング教室が、千葉県浦安市であった。初心者から少し経験のある人まで老若男女十人が集まった。

 三日間の日程で、初日はゆっくり歩くところから始まる。「義足もひざを上げて。太ももを意識して動かして」。講師の山本の声を聞きながら、参加者は汗だくになって足を動かす。

 二〇一八年にバイク事故で左脚を失った最年少の辻林慧(さとる)(20)は「脚を切断する前の百メートルのタイムを超える」を目標に大阪から参加した。事故の半年後から、脚を切断した人のアスリートクラブに通い、練習を重ねてきた。「競技会にも出てみたい」と意欲を見せる。

 自宅が近いと知った山本は「今度一緒に練習しよう」と誘った。「一回の教室に一人は、パラリンピックを目指せる人がいる」と素質を見込む。

 今回の教室で山本が付きっきりで教えたのは、千葉県八千代市から参加した最年長の多羽田(たばた)雅孝(75)だ。一六年、趣味の登山中にテーピングをきつく巻きすぎて左脚に血栓ができ、状態が悪くなり切断を余儀なくされた。

 「一時は不幸のどん底に落ちたと思った。だけど、自分のスタートは走ることだと決めた」。初心者で動きはぎこちなく、上達は一番遅い。それでも諦めず、最終日には全力を出して一直線に駆けた。

 修了式で、多羽田はみんなに語った。「もし走れなかったらどうしようと不安だった。それが今日、走ることができた。最高だった」。晴れやかな笑みを拍手が包んだ。

 バイク事故で左脚を切断した山本は「(走るために作られていない)日常用の義足では、走るのを諦める人が多い」と説明する。「僕はまたスポーツができた時はすごくうれしかった。生活の質を上げるためにも『できる』という成功体験が大切」

 教室では、一六年リオデジャネイロ・パラリンピックで山本と競い合って金メダルを獲得したハインリッヒ・ポポフ(36)も講師を務めた。一八年に引退したドイツの元名選手は、パラ陸上日本代表のテクニカルアドバイザーを務めつつ、世界中で、競技用義足の教室を開いている。

 骨肉腫のため九歳で左脚を失ったポポフは、再び走れるように支えてくれた周囲への感謝を忘れたことはない。義足で走ることは人生を豊かにするための一歩であることも。

 「障害者のスポーツを語る時、すぐにパラリンピックと言うのは違う。私たちはただ、走る人を支えたい」 =敬称略

 

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