東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 2月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(3) 運命呼んだ父の決断

大松博文は、生家(右)の前を流れる大束川で泳いで育った=香川県宇多津町で

写真

 右打者の顔面目がけて迫る剛速球に、思わずのけ反る。が、気付けばボールは捕手の構えるど真ん中に。見たこともない横に滑る変化球は、現代風に言えば高速スライダーか。

 英領ビルマ(現ミャンマー)の最大都市ラングーン(現ヤンゴン)に設けられたアーロン収容所。戦後、日本軍捕虜となった佐々木要(故人)は後にまとめた手記で、労役の合間に広場で興じた野球での驚きを回想している。

 投手は、大松博文。後に白球をバレーボールに持ち替え、コートで速射砲のように女子選手に投げつける。レシーブ練習に生かすのだ。その運動能力の高さに、佐々木は「女子バレー監督で世界を制したことも不思議ではない」と振り返っている。

 戦時中のインパール作戦で同じ部隊にいた大松と佐々木。作戦が中止されると、英軍にタイ国境に近いビルマのモールメン(現モーラミャイン)に追い込まれ、終戦とともに投降した。

 手記によれば、収容所は二重の有刺鉄線に囲まれた生活。物資が欠乏し、鉄線越しに現地住民と物々交換しようとした部隊の仲間が、監視兵に腹を撃たれ殺されている。

 過酷な思い出を持つ佐々木が、晩酌がてらに大松の投球ぶりを熱っぽく語る姿を、福島市に住む孫昭一(56)は覚えている。東京五輪後に開かれた戦友会で、大松がプロ野球に行きたかったと話していたのを、祖父から聞いた。

 少年野球で投手として活躍した大松。香川県宇多津町で幼少期から自宅前を流れる川幅六十メートルほどの大束川を泳ぎ、バレーボールもしていたが、尋常小学校を卒業すると野球の強豪、坂出(さかいで)商業学校(現坂出商業高校)に進む。

 自著「おれについてこい!」によると、「おまえは野球が向いている」と坂出商を薦めたのは父太平。「おまえ、野球部をやめい」のひと言で一年で野球をやめさせたのも太平だという。

大松の父太平(右)。中央の手前は2歳の大松=大松美恵子さん提供

写真

 野球部では、世間に反抗を示す「バンカラ」な格好がはやっており、地元の名士だった父は「どうしても黙っていられなかったのでしょう」というのが、自著に記した大松の受け止め。しかし、今も大松の生家に住む義妹の美恵子(90)は、太平自身から違う理由を聞いている。

 「疲れ切った様子で眠るのを見て、心配した」

 父の心変わりが、大松の人生だけでなく、日本のスポーツ史を変えることになる。野球部をやめた後、書道部など文化系の部を転々としていた大松が、校内のバレー大会で活躍。それをバレー部が見逃さなかった。

 「運命の不思議さをつくづく感ぜずにはいられません」。大松も校史「坂商六十年」につづっている。

 大松はアタッカーとして頭角を現し、坂出商は一九三五(昭和十)年の明治神宮体育大会で準優勝。その名が刻まれた賞状は今も学校に保管されている。

1935年の明治神宮体育大会のバレーで準優勝した坂出商業に授与された賞状

写真

 関西学院高等商業学校(現関西学院大)へ進学後もバレーを続けた。卒業後の四一年には先輩がいる大日本紡績(日紡、現ユニチカ)に就職する。

 その年暮れに日米が開戦。選手として貴重な二十代前半を戦地で過ごし、生死をさまよう。ビルマから復員したのは、六年後の四七年。日紡で再びバレーボールを手にするが、もはや選手ではない。工場ごとに設けられたバレー部で、仕事の合間の指導者として、だった。 (敬称略)

 前回東京五輪にまつわる思い出やエピソードをお寄せください。

〒100 8505(住所不要)東京新聞社会部「五輪取材班」 Eメールshakai@chunichi.co.jp

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報