東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 2月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(6) 続投へ 狭まる包囲網

1962年、モスクワでの世界選手権に優勝し記念撮影する日本代表チーム=タス・共同

写真

 当時、米国と世界を二分した超大国が、その試合に威信をかけていた。

 一九六二(昭和三十七)年十月二十日、ソ連(当時)の首都モスクワで開かれた女子バレーボール世界選手権。四連覇を狙うソ連と、前回二位の日本がリーグ戦中盤で対戦し、事実上の優勝決定戦となった。

 前年夏、ソ連は「ベルリンの壁」を築き始め、東西冷戦を本格化させていた。観客席には、一年半前に人類初の宇宙飛行に成功し「地球は青かった」の名言を残したソ連の英雄ガガーリン。後に共産党書記長として長期政権を築く最高会議議長ブレジネフの姿もある。

 その大舞台で、大松博文率いる日本代表が、猛練習で極めた秘技「回転レシーブ」でソ連の強打を拾いまくる。「木の葉落とし」と呼ばれた変化球サーブでも翻弄(ほんろう)。セットカウント3−1で宿敵を破る。

 大松は選手に胴上げされ、ガガーリンの目前で宙に舞う。

 「いま、わたしは死んでもいい!」

 翌年、出版された自著「おれについてこい!」で、率直に喜びを記している。二年後の東京五輪で再びソ連を破り、優勝したときは無表情だったが、モスクワでは涙も見せている。

1964年の東京五輪の時、大松博文が着用していたスーツと帽子=兵庫県尼崎市のユニチカ記念館で

写真

 「東洋の魔女」。ソ連の新聞が驚きをもってつけた呼び名は、日本でも一気に広まる。五輪に向け膨らむ一方の期待をよそに、大松は選手権から帰国後、世間を揺るがす発言をする。

 「世界一の目的は果たした。私の体力も限界。監督はやめたい」

 日本体育協会で開かれた祝勝会での突然の辞意表明。大松辞任は、日本代表の崩壊につながりかねない。当時「東京スポーツ」駆け出しの記者だった小泉志津男(82)は、これを機に「連日の大騒ぎ」が始まったと記憶している。

 大松は太平洋戦争中のインパール作戦でマラリアに感染。戦後も腰の痛みに悩まされ、右目も練習でボールが当たり視力はほぼゼロだった、と自著に記している。

 それに加え、「先生は選手の年齢を考えて悩んでいた」と、元日本代表の半田百合子(79)は明かす。

 主将で最年長の河西(かさい)昌枝(故人)は、東京五輪時には三十一歳になる。当時の女性の平均初婚年齢を六歳以上、上回る。大松は「この娘たちを早く十字架からおろしてやる」と当時の望みを自著につづっている。

 その心遣いは、一企業の利害を超え、日本の威信がかかった五輪を前に、かき消されていく。

 「金メダル候補や」。日本代表の母体となっている大日本紡績(日紡)貝塚に、日本バレーボール協会幹部らが日参し始めたのを、半田は覚えている。

 女子バレーは六二年六月、五輪の正式種目に決まったばかり。五輪組織委の初代事務総長、田畑政治(まさじ)が「金を期待できる」とそろばんをはじき、国際オリンピック委員会(IOC)へ猛烈にロビー活動した成果だった。

 当時を取材していた小泉によると、その田畑が大松の慰留に向け、日紡社長の原吉平に直談判する。原は大松を実業団バレー監督に抜てきした立役者。大松は社長にも翻意を迫られる。

 日紡には五千通を超える手紙が届いていた。大半は「五輪に出てくれ」という内容。「やらんかったら非国民になるよ」。日本代表の一員だった松村好子(78)は周囲から言われた言葉を今も思い出す。

 世界選手権から二カ月たった年の瀬。大松はレギュラー級の五人を夜の会議室に集め、口を開く。

 「オリンピックをやるかどうか、実家で相談してこい」。自ら決断できない、悩める「鬼」の姿があった。 (敬称略、選手名は旧姓)

   ◇

 前回東京五輪にまつわる思い出やエピソードをお寄せください。〒100 8505(住所不要)東京新聞社会部「五輪取材班」

Eメールshakai@chunichi.co.jp

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報