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【300文字小説】

思い出し旅行 中野耕志

イラスト・瀬崎修

写真

 十連休も終わり、散髪をした。「どのくらい切りますか」と聞かれ、「いつもどおりにお願いします」と返事。短いスポーツ刈りが定番だ。

 ふと思い出した。学生時代は髪を伸ばしていた。社会人になっても伸ばしていた。いつから髪を短くしたのか…思い出そうと記憶をたどり始めた。

 私の学生時代は、男子全員、丸刈りが主流だったが、私の中学校は丸刈りではなく、私は喜んでいた。高校時代が一番髪にこだわっており、整髪料やブラシにまでこだわった。

 そうか! 仕事でバイクに乗るようになり、頭が蒸れるので短髪にしたのだった。以来十年ほど…。

 「いかがですか」と店主に声をかけられ、「思い出し旅行」は終わった。

 (徳島市・会社員・56歳)

◇ ◇ ◇ ◇

公園のおばさん 柴田朋美

 二人の息子が幼い頃、毎日のようにあちこちの公園へ連れて行った。

 二人は喧嘩(けんか)ばかりするし、私は自分の時間が持てず、育児に疲れ果てていた。

 そんな時、いろんな公園で、私よりいくつも年上の女性たちに出会った。

 私の疲れた姿を見てか、ある女性は「私の息子たちも小さい頃は喧嘩ばかりしていたけど、大人になったら、とても仲良しよ」と言い、また別の公園の女性は「子どもが大きくなってから、日曜日はいつも一人よ」と話してくれた。

 実際、数年経(た)った現在の日曜日、私は一人で過ごしている。

 子どもの世話に追われることもなくなった。

 今度は私が疲れたママに話してあげようか。

 そう思うけれど、公園に行く機会がなくなってしまった。

 (愛知県岡崎市・パート・50歳)

◇ ◇ ◇ ◇

白鯨 朝岡みゆき

 嵐の夜に、メルヴィルの『白鯨』を読んでいた。

 海辺の丘に建つわが家。風雨が激しくなり、雨戸を閉めようとして、ベランダの窓を開けた。

 潮を含んだ強い風が吹き込んできた。

 風が、『白鯨』のページをめくった。

 その瞬間、ページの間に白い尾びれのようなものが見えた気がした。

 小説の中で、生きるか死ぬかの闘いを繰り広げる白鯨。もしかしたら、逃げ出したいと思ったのかもしれない。

 私はベランダの窓を全開した。

 高波がわが家に迫ってきた時、白鯨が本の中から飛び出してきた。

 そして、引き波に誘われるようにして、暗い海に飛び込んで消えた。

 翌朝。青天の下に広がる大海原を、悠然と泳ぎ去っていく白鯨を、私は見た。

 (愛知県豊橋市・主婦・49歳)

◇ ◇ ◇ ◇

 理髪店のチェアに腰を下ろして、中野耕志さんの「思い出し旅行」。鏡に映る現在の自分と対話しながら記憶をたどること小一時間ほど…はい、お疲れさまでした。

 子どもたちを遊ばせに通った頃を思い返して、柴田朋美さんの「公園のおばさん」。さまざまな世代が顔を合わせて、自然にコミュニケーション。納得のアドバイスも得られます。

 エイハブ船長とモビィ・ディックの壮絶な死闘に胸躍らせる、朝岡みゆきさんの「白鯨」。読者の熱中に応え、素晴らしい物語が、素晴らしい幻想をもたらしてくれました。

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