東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 300文字小説 > サンデー版掲載入選作一覧 > 記事

ここから本文

【300文字小説】

ツバメ 森田外志枝

イラスト・瀬崎修

写真

 民家を外れて農道に入ると、早苗(さなえ)田を渡る風が気持ちいい。ガタガタ道になるので気をつけてペダルを踏んでいると、自転車の前をツバメが横切る。

 「あゝまた来たね、お前さん。お早(はよ)う」

 私が挨拶すると、ツバメは嬉(うれ)しそうに後ろから回って、さらに前輪の近くへ飛んでいく。

 ガタガタ道は四、五百メートル。その間を、自転車と交差しながら、ずっと一緒だ。畑への道を左に曲がるとスーッといなくなる。

 さて、一仕事を終えて帰り道。角を曲がり、ガタガタ道に入った途端、またツバメが、待ってましたと近づいてきて、あの民家の所まで二羽で送ってくれる。

 ツバメが渡っていくまでの楽しい畑仕事である。

 (石川県羽咋市・主婦・70歳)

◇ ◇ ◇ ◇

ヴァカンスの語源 鈴木真人

 離陸して約十五時間が経過。ようやく念願の地に到着した。

 さっそく添乗員から時計の針を七時間巻き戻すよう指示を受ける。なんだか得した気分だという常套句(じょうとうく)が浮かぶ。

 定年退職後の自由気ままな旅だ。そもそも「ヴァカンス」とは「空っぽ」という意味のラテン語が語源らしい。

 一週間ほど西欧の歴史と文化に触れ、五感全体で満喫し帰路についた。

 行きと同様、長時間フライトの末、帰国した。

 さっそく添乗員から指示が出た。

 「時計の針を七時間進めてください」

 勝手なもので、今度は少し損をした気分だ。

 はてさて、この七時間をどう捉えたらいいのやら。時差ボケの頭が空っぽになるが、この点はヴァカンスであるが故に良しとしよう。 (愛知県瀬戸市・無職・62歳)

◇ ◇ ◇ ◇

心理戦 酒向美波

 静かな教室にペンの走る音がする。

 ずっと前から勉強していたところばかりなので、私のペンが止まることはない。

 全ての問題を解き終えたところで、見直しにはいった。

 そこで私の表情が曇った。解答用紙に「ア、ア、ア、オ」と書かれているからだ。

 少し前の問題にも「ア」が続いている。確かに「ア」で正解のはずだ。

 しかし、なんだか不安になってきた。こんなにも同じ文字が続くものだろうか?

 もう時間はない。私は消しゴムを使って「ア」を「イ」に書き直した。

 数日後、テスト用紙が返却され、私は答を見て「はぁ」と生ぬるい息を吐いた。

 そこには「ア、ア、ア、オ」と書かれていた。私はまた、先生との心理戦に負けてしまった。

 (愛知県瀬戸市・中学生・12歳)

◇ ◇ ◇ ◇

 田植え時の爽やかな風に乗って舞い飛ぶ、森田外志枝さんの「ツバメ」。みずみずしい田園風景をヒラリと切り取る心地よさ。この季節ならではの空気感が伝わってきます。

 空っぽの時間は自由な時間、鈴木真人さんの「ヴァカンスの語源」。時差で生じた心の余白に憧れの異国の思い出をぎっしり詰め込んで、長旅の疲れも吹き飛びました。

 試験問題が配られた教室を舞台に出題者と解答者が繰り広げる、酒向美波さんの「心理戦」。しかし、この場合は小細工に走らず、努力を重ねた自分の実力を信じるべきでした。

投稿はこちらから
 

この記事を印刷する