東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 政治 > 紙面から > 1月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【政治】

<2020年 核廃絶の「期限」>被爆地で平和五輪 幻に 広島・長崎共催 賛同得られず

写真

 「二〇二〇年までに核兵器をなくし、広島・長崎で五輪を開催したい」

 〇九年十月、被爆地の二人の市長(当時)がこんな計画を発表した。広島の秋葉忠利(77)、長崎の田上富久(63)による「広島・長崎オリンピック構想」。

 この構想には、両市がメンバーの平和首長会議が掲げる二〇年までの核廃絶を実現し、そのシンボルとして平和の祭典を自らの手で開きたいとの願いが託されていた。近代五輪はスポーツを通じた世界平和の実現を理念に掲げる。

 秋葉が振り返る。「原爆投下後、『広島には七十五年間、草も木も生えない』といわれた。その七十五年後が二〇年。再生の時を五輪とともに迎える目標には大きな意味があった」

 核なき世界の平和と安全保障を追求すると約束する−。オバマ米大統領(当時)がチェコ・プラハでの演説で、決意を表明したのは〇九年四月。米国のリーダーの訴えも、二人を「平和五輪」へと突き動かした。

 被爆者には「夢よりも現実から目をそらすな」と反対する声も少なくなかったが、田上は「二〇年は核兵器をなくそうという目標であり、被爆地にとって特別な年。五輪構想は、できることは全部やるという認識から生まれた」と話す。

 「広島・長崎五輪」を願ったのは二人の市長だけではなかった。

 一九六四年の東京五輪で聖火リレーの最終走者を務めた坂井義則(一四年死去)。広島に原爆が投下された日、今の広島県三次(みよし)市で生まれ、広島市がまとめた五輪基本計画案にも「核廃絶のメッセージを世界中に示すことができるはずだ」と賛同の声を寄せている。

 しかし、被爆地による共催構想を、五輪憲章にある「一都市開催」規定が阻む。二人の提案に日本オリンピック委員会(JOC)は首を縦に振らなかった。

 活路が見いだせない中、構想発表から三カ月後の一〇年一月、長崎市が招致運動から離脱。広島市は単独招致の方針に転じたが、重い財政負担への懸念から市民の支持が広がらず、翌年春に秋葉が市長を退任すると、構想は消えた。

 結局、二〇年五輪は、東日本大震災からの「復興五輪」を掲げた東京が射止めた。

 秋葉はいまだに、納得できない点がある。「一都市開催」の原則だ。東京五輪を巡っては昨年、マラソンと競歩の札幌開催が決定。広島・長崎構想を門前払いしたその原則は、なし崩しになったように映る。秋葉も「二都市で開くというわれわれの考えは、十年早かった」と悔やむ。

 東京五輪は八月九日に閉会式を迎える。長崎への原爆投下から、ちょうど七十五年の日だ。

 田上は願う。「五輪は平和のための祭典。核兵器や広島、長崎について考える契機にしてほしい」 (敬称略)

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報