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【埼玉】

<つなぐ 戦後74年>「国のために」若き死を忘れぬ 14歳で特別年少兵 上尾の黒川忠さん

14歳で旧日本海軍の特別年少兵となった黒川さん。「10代の若者が『国のために』と死んでいった事実を知ってほしい」と語った=上尾市で

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 太平洋戦争中、「特別年少兵」と呼ばれた最年少の志願兵がいた。上尾市の黒川忠(ただし)さん(90)もその1人だ。年少兵となったのは、自分のひ孫と1歳違いの14歳の時。「10代の若者が『国のために』と死んでいった事実を、今の子どもらにも知ってほしい」と体験を語り継いでいる。 (森雅貴)

 黒川さんは1928年、10人きょうだいの9番目として生まれた。戦争が始まり、ジャガイモやサツマイモを混ぜた麦飯を大家族で分け合う、ひもじい日々が続いた。国民学校高等科2年だった42年、当時の町職員が学校に特年兵の案内を持ってきた。

 「このまま普通に過ごしていても、どうせ20歳で徴兵に遭う。軍隊に行けば食べ物には苦労しないだろう」。そんな考えが頭に浮かんだ。食料は軍隊が優先された時代だ。「自分がいなくなって、その分、家族が楽になるなら」との思いもあり、志願した。

 父に意思を伝えると、当初は返事もしなかったが、最後に「行ってこい」とだけ言ってくれた。脳卒中で意識不明になっていた母とは、今生の別れとなってしまった。

 43年、神奈川県横須賀市の海兵団で、国語や数学など現在の高校3年までの基礎科目を学んだ。成績が悪いと「軍人精神注入棒」と呼ばれた木製バットで尻を強くたたかれ、真っ赤になった。「怖くて必死に勉強した」

 1年間の課程を終え、同県藤沢市にあった電測学校に配属された。レーダーで敵の飛行機を捉え、距離や角度を予測。この情報がラジオで流す空襲警報の基にもなった。

 半年後、マリアナ諸島に移り、兵隊を運ぶ輸送船を護衛する任務に就いた。しかし輸送船は、敵の魚雷や戦闘機からの攻撃で、どんどん撃沈された。沈みゆく船から、助かろうと必死に海に飛び込む仲間の姿も目にした。「離れた場所から見ることしかできず、つらかった」と振り返る。

 敗色が濃くなり、輸送する船もなくなると、今度は茨城県鹿嶋市にあった神之池(こうのいけ)航空基地へと移された。人間が操縦して体当たりする特攻機「桜花」の訓練が行われていた場所だ。

 特攻隊員が出発前日に酒を飲んだり大騒ぎしたり、親に手紙を書いたりしていた姿は今も覚えている。「見送るたびに、心が苦しくなった」

 16歳で終戦を迎えたが、同じ年頃の特年兵の多くが命を落としたことは、ずっと心に影を落としている。特年兵の慰霊碑がある東京・東郷神社の慰霊祭に毎年参加し、全国から集まる仲間と語り合っていたが、それも高齢化で行われなくなった。

 「何で戦争なんかしちゃったの?」。ひ孫(15)にこう聞かれたことがある。「あの頃は自由がなかった。いつ死ぬかも分からず、今では考えられないことをしてしまっていた」と返すしかなかった。10代半ばで見た戦場。記憶を呼び起こすたびに強く思っている。

 「二度と戦争をしてはいけない」

<海軍特別年少兵(特年兵)> 1942〜45年に旧日本海軍が中堅幹部の養成を目的に、14、15歳を対象に採用した最年少の志願兵。4年間で約1万7000人が入隊し、5000人余りが命を落としたとされる。2005年の映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純弥監督)の題材にもなった。

海兵団時代の黒川さん(中列中央)=本人提供

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