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【埼玉】

<つなぐ 戦後74年>軍都・埼玉の面影 所沢周辺、戦跡巡るツアールポ

航空自衛隊入間基地(奥)の歴史について、ガイドから説明を受けるツアー参加者たち=入間市で

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 第2次世界大戦で連合国が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言を受信した通信所、操縦兵や整備兵の育成を担った日本初の飛行場−。所沢市周辺に残るそんな戦跡を巡るツアーが6日、実施された。歴史にかかわる学者や教職員らでつくる歴史教育者協議会(歴教協)の企画。記者も同行し、かつて「軍都」と呼ばれ、今も米軍や自衛隊関係の施設が多い埼玉の歴史的な背景を改めて心に刻んだ。 (加藤木信夫)

 まず向かったのは、新座市と東京都清瀬市にまたがる米軍大和田通信所。かつての旧日本海軍大和田無線通信所跡だ。10年ほど前までは当時の建物やアンテナも残っていたが、既に撤去されたという。間近で見た現在の通信所は鉄柵で覆われ、米軍が使っている巨大なクモの巣形のアンテナがそびえ立っていた。

ポツダム宣言を受信したとされる旧日本海軍の通信所跡。現在は司令官搭乗の指揮機と通信するという米軍のクモの巣形アンテナが設置されていた=新座市の米軍大和田通信所で

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 歴教協によると、旧日本軍の中で受信機能が際立っていた大和田は終戦間際、ポツダム宣言のほか、広島と長崎に落とされた原爆搭載機の離陸も受信したとされる。ツアー参加者は歴史的な重みを胸に真剣な表情で見入り、猛暑の中、しきりにカメラのシャッターを押していた。

 続いて、所沢市へと移動。たくさんの人がくつろぐ所沢航空記念公園(同市並木1)内には、長方形の大きなくぼ地があった。幅50メートル、長さ400メートルはあるだろうか。

 「ここが日本初の飛行場滑走路の跡地です」

 歴教協会員の篠原謙さん(69)が教えてくれた。元々はサツマイモの産地で、土質が軟らかかった。そのため、小石を敷き詰めた上にクローバーなどを植栽し、飛行機の離着陸に耐えられるようにしたのだという。

 旧日本軍の時代、所沢飛行場は少年を含む操縦兵や整備兵の育成を担った。

 「戦争で航空機を活用する人材を育て、(結果として)相手国の人々の被害を増幅した。こうした『負の遺産』から目をそらすことなく、共有財産にすることが、平和都市になる第一歩だと思う」。篠原さんが力を込めた。

日本初の飛行場滑走路の跡地=所沢市の所沢航空記念公園で

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 通信所跡や飛行場跡といった所沢周辺の戦跡はいずれも旧日本軍の施設で戦後、米軍に接収された。地元自治体や市民らが粘り強く返還運動を続けた結果、狭山市と入間市にまたがる旧日本陸軍航空士官学校があった場所が全面返還されたものの、航空自衛隊入間基地に。所沢市では飛行場跡の一部が航空公園になったが、米軍所沢通信基地として残った部分もある。

 大和田と所沢の米軍施設は、いずれも米軍横田基地(東京都福生市など)の通信施設として今も使われている。所沢通信基地では、横田基地の工事残土を搬入するダンプカーが激しく出入りしていた。地元は搬入に反対したが、聞き入れられず、今月9日には米軍に基地の一部返還を求める要請書を出した。昨年7月にはオスプレイが離着陸するなど、米軍基地があることへの市民の不安は大きい。

 「埼玉には『軍都』の面影が強く残っているね」。ツアーを通して何人もの参加者が口にした言葉だ。軍関係施設が多く、軍隊が産業や市民生活に大きく影響した地域。その歴史は今も尾を引いている。身近な戦跡を巡り、記者自身も改めて実感した。

 

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