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【埼玉】

<線路は続くよ 西武秩父線開通50周年> (上)玄関口、上野から池袋に

西武秩父線の開通を祝う関係者ら=1969年10月14日、西武秩父駅で

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 一九六九年一月二十九日、飯能市と横瀬村(現横瀬町)の市村境付近の地下。西武鉄道の小島正治郎社長(当時)が発破のスイッチを押した。「ドッカーン」−。双方から光明が差し込み、工事関係者が歓喜の声を上げた。

 「上下左右に二センチぐらいずれていただけ。当時は(トンネル掘削のための)レーザー技術もない。毎日毎日、繰り返し測量していた結果でしょう」。秩父方面の工事を担当した不破秀彦さん(89)=東京都練馬区=と小林雄一さん(82)=狭山市=は当時を振り返る。

 延長十九キロの西武秩父線(吾野−西武秩父)の最大の難所、正丸トンネル。全長は四千八百十一メートルで、当時、私鉄の山岳トンネルとしては国内最長だった。開通前日の十月十三日には5000系の特急レッドアロー号が西武秩父駅のホームに滑り込み、多くの関係者に出迎えられた。

 秩父鉄道で寄居に出て東武東上線を利用するか、あるいは秩父鉄道で熊谷に回って国鉄高崎線に乗るか−。それまで秩父から東京都心までの所要時間は三時間近くかかった。西武は、レッドアローを利用すれば、池袋−西武秩父間が一時間二十三分に短縮されると大々的にアピールした。

 秩父鉄道にとっては「非常に脅威」(大谷隆男同社社長)と映ったが、秩父商工会議所の島田憲一副会頭(68)は「東京の玄関口が上野から池袋になった。就職や進学が熊谷から所沢方面に向かい、秩父の人の生活が劇的に変わった」と話す。

正丸トンネル貫通の喜びに沸く工事現場=同年1月29日、飯能・横瀬市村境付近で(いずれも西武鉄道提供)

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 ただ、開通に負の側面もないわけではなかった。東京の日帰り圏になることでいくつかの老舗旅館が廃業。秩父の織物会社に勤めていた職人が、より良い稼ぎを求めて地元を離れるきっかけになったともされる。

 不破さんと小林さんは、当初の開通目的は旅客よりも武甲山で採掘される石灰石やセメントの輸送だった▽西武秩父駅の新設に際しては、秩父農工高校(当時)の土地を県から譲り受けた▽軽井沢(長野県)への延伸計画もあったが、採算が見込めず断念した−ことなどを明かした。

 不破さんは現在の西武秩父線を見通しつつ「秩父観光といって思い付くのは、三峯神社、長瀞渓谷と秩父ミューズパーク。西武が関わって、もっと地元を盛り上げればいい」と後進にエールを送る。

     ◇

 西武秩父線が十四日、開通五十周年を迎えた。秩父地域の社会や経済にインパクトを与えつつ、外資系ファンドの攻勢で、廃線の危機に見舞われたことも。今や秩父の年間観光客数は約一千万人。秩父を支える大動脈の半世紀を振り返る。 (この連載は出来田敬司が担当します)

 

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