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【スポーツ】

稀勢の里、引退 横綱在位2年 けが苦しみ

2017年3月の大相撲春場所で、左胸などに大けがをしながらも2場所連続2度目の優勝を果たした横綱稀勢の里=大阪市で

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 大相撲の横綱稀勢の里(32)=本名萩原寛(ゆたか)、茨城県出身、田子ノ浦部屋=が、東京・両国国技館で行われている初場所四日目の十六日、現役を引退することを決めた。師匠の田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)が明らかにした。

 稀勢の里は二〇一七年一月の初場所で初優勝し、場所後に第七十二代横綱に昇進。続く春場所も制して連覇を達成したが、十三日目に日馬富士に敗れた際に左胸や左上腕を負傷。その後は全休四場所を含め、横綱としては最長の八場所連続で休場。昨年十一月の九州場所は初日から四連敗して五日目から休場。場所後の横綱審議委員会(横審)で、過去に例のない「激励」の決議を受けていた。

 横綱在位は十二場所、通算の幕内優勝は二度。

 当時の鳴戸親方(元横綱隆の里)が師匠を務める鳴戸部屋に入門し、〇二年春場所で十五歳で初土俵を踏んだ。入門時から身長184センチ、体重132キロあった恵まれた体格を生かして順調に出世し、〇四年夏場所で貴乃花に次いで史上二番目に若い十七歳九カ月で十両に昇進。同年九州場所では十八歳で新入幕も果たした。〇六年の名古屋場所で新三役。師匠が急逝した直後の一一年九州場所後に大関に昇進した。

 一〇年九州場所では、六十三連勝中だった横綱白鵬に勝ち、一三年名古屋場所でも同じ横綱の連勝を四十三で止めるなど、全盛期の第一人者に立ち向かった。三十一場所在位した大関時代は、負け越しがたった一度で抜群の安定感を示した一方で、勝負どころでの黒星も多く、幕内での優勝とは長く縁がなかった。

 通算800勝496敗(初場所四日目の不戦敗も含む)。三賞は殊勲賞を五度、敢闘賞を三度、技能賞は一度獲得。引退後は年寄「荒磯」を襲名する予定で、後進の指導に当たる。

<田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)の話> 横綱だから結果を出さないといけない。稀勢の里は我慢強い。そういう力士が引退を話すのだから、覚悟があったと思う。横綱になってくれてうれしい面もあったが、近くで見ていて本人は一番格闘しているなと分かった。(横綱昇進後の)二年はあっという間だった。

◆愚直相撲道… 白星遠く

 大相撲の横綱稀勢の里が、引退を決断した。二年前の初場所で三十歳にして初優勝し、横綱に昇進。ようやくつかんだ栄光もつかの間、次の春場所で左胸と左上腕に大けがを負うと、その後は綱を張る責任を果たせなかった。最後の場所も勝ち名乗りを受けることがないまま、土俵を去る。

 苦しみぬいた相撲人生だった。出世が早く、十八歳で幕内に昇進。将来を嘱望されたが、長い間、賜杯にも横綱の地位にも届かなかった。大関昇進後は、毎場所のように優勝争いに加わりながら、終盤の大事な相撲で星を落とした。そんな姿にファンは一喜一憂したり、自らの人生を重ねたり。館内での声援は、いつもひときわ大きかった。

 一方で、「精神的に弱い」「相撲に進化が見られない」と、厳しい言葉も投げかけられた。それでも、批判を正面から受け止め、なにも反論せずに黙々と土俵に上がり続けた。

 最後の場所となった初場所の初日。黒星を升席で見届けた横綱審議委員会(横審)の北村正任委員長(毎日新聞社名誉顧問)は「これだけみなさんが期待してくれているのに、負けてしまって」と渋い表情を見せつつ、言葉を続けた。「でも、頑張ってほしい。なんとか、なんとかなってほしい」。ファンの願いを代弁していた。

 大関時代、相撲をやっていて何が一番うれしいかと質問されて、稀勢の里は答えた。「相撲に勝つことが一番うれしい。つらいことがほとんどなんだけど、一つ勝つだけで、そのつらいことを忘れてしまうくらい、うれしい」。愚直で純粋な思いだけを支えに、精進してきた。

 忘れてしまいたいことばかりの相撲人生。横綱という頂点に上り詰めても、次の白星を求めて鍛錬を続けた。だがその白星も、昨年九月の秋場所十四日目を最後に、ついにつかめなかった。うれしいことがなくなった今、希代の人気力士は、土俵に別れを告げるしかなかった。 (平松功嗣)

 

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