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【スポーツ】

<楕円球の絆 指揮官の源流> 日本代表HC ジェイミー・ジョセフ

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 4年に1度のラグビーの祭典、ワールドカップ(W杯)日本大会(9月20日開幕)まで7カ月余りとなった。開催国として挑む日本代表の選手やスタッフは、これまでどんな道を歩んできたのか。楕円球を通して絆を育んできた周囲の人たちに話を聞いた。初回はヘッドコーチ(HC)のジェイミー・ジョセフ。ラグビー王国ニュージーランドの代表「オールブラックス」で活躍し、日本代表としてもW杯に出場した49歳が日本の指揮官を引き受けた背景には、「良くしてくれた国に恩返しを」という日本への熱い思いがあった。 (対比地貴浩、敬称略)

 1995年。ジョセフは福岡県宗像市を本拠地とするサニックスに加入した。日本のラグビー界ではまだ無名で、玄界灘に臨む当時人口8万人に満たなかった小さな街が、王国から来たその選手にとって日本を知る原点となった。

 「見た目通り、パワフルで大胆。でも意外と細かいところもある」。現役時代はチームメートとして、今はともに日本の強化に携わる身としてジョセフと長く付き合ってきた日本代表強化副委員長の藤井雄一郎は懐かしげに笑う。

 94年創部のサニックスは、同社の社長だった宗政伸一(故人)の下で強化を進めていた。その目玉が95年W杯で準優勝したオールブラックスのFWジョセフだった。身長196センチ、体重105キロの巨漢が繰り出す突進とタックルはとにかく強烈。184センチ、90キロ超と日本選手としては大型FWだったチームメートの森拓郎(現関大コーチ)は「ジョセフと当たった瞬間、あおむけに倒された」と振り返る。日本しか知らない選手たちに、世界レベルの怪力は体感として伝わった。

 普段の生活でも豪快だった。練習用の短パンを私服で愛用し「真冬以外は、その格好の印象が強い」と森。寒くないかと尋ねると、「ガハハ」と笑い飛ばされた。

 破格のパワーを持ち、豪快な振る舞いが目立ちながら、緻密さも備えていた。そのギャップが、周囲の人間の記憶には色濃く残る。

 ジョセフは、チームでFWコーチのような役回りも託された。練習の効率を上げるため、選手個々の動きを細かく決め、トレーニングの狙いもA4ノートにびっしりと書き込んだ。一方で、教えたことだけを正確にやろうとする日本人の気質も理解し、決めごとをたくさんつくりながら、それを破ること、状況判断の大切さも説いた。「人の顔を観察し、体調も確認していた」。配慮の行き届いた指導に藤井は感銘を受けた。

 ジョセフはプロ選手だったため、社業後に練習に取り組む社員選手とは、少なからず溝が生まれたという。同い年という間柄で、相談をよく受けたという藤井は「(プロ主体の)ニュージーランドとの差を感じていた」と振り返る。誕生したばかりのチームで、プロとアマが混在する集団をどう強くするか。難題に悩むことが、日本のラグビーと真剣に向き合う契機にもなった。

サニックス時代にプレーするジョセフ(左端)と藤井(右から2人目)=サニックス提供

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 「ハンギリーダー」。ジョセフはサニックス時代、風変わりな肩書も持っていた。

 チームの一体感を深めようと自ら新たに企画したのが、選手やスタッフとその家族を交えた食事会だった。好評だったのが、自身のルーツである母国の先住民マオリの伝統料理「ハンギ」。クラブハウスの敷地内に掘った1・5メートル四方ほどの穴に、まるまる1羽の鶏肉やジャガイモ、ニンジンなどが入ったかごを沈め、周囲を燃やしたまきで熱してふたをする。かごの中の食材を蒸し焼きにする料理だ。

 調理を託されたのは、ジョセフをリーダーに結成された「ハンギ隊」。隊員だった森はまきを近くの林からかき集める役割だった。汗だくの重労働。でもハンギリーダーは、「俺らの特権」として出来たてのごちそうを真っ先にハンギ隊に食べさせてくれた。柔らかく蒸された鶏肉は、絶品だった。「だからハンギ隊は名誉です」と森。食事会はジョセフがチームを去った後も引き継がれ、サニックスの恒例行事となった。

 チームメートの結婚式で「ハカ」を実演したこともあった。オールブラックスが試合直前に披露する神聖な民族舞踊で、仲間のために一肌脱いだ。家族ぐるみでの付き合いは、チームの結束を高めた。

 興味は日本の文化にも向いた。その一つが和食。微妙な塩加減や隠し包丁など、きめ細かな職人技にほれ込んだ。何事にも緻密に取り組まないと気が済まない性格に合い、食を通じて「日本人の繊細さ」に共感。日本よりも乗馬が一般的に楽しまれているお国柄、「馬刺しは絶対に食べない」と断言していたが、森によると「強く勧められて食べたらおいしくて、困った顔で笑っていた」。日本の文化のとりこになっていった。

 サニックスは96年に西日本Aリーグ昇格を決め、99年のリーグ初優勝から4連覇。現在のトップリーグには、発足した2003年から参戦する。躍進の要因として、森は「チームが家族のようだったから」と振り返る。日本を愛し、現役で8シーズンを過ごしたジョセフの熱心な取り組みが、実を結んだ。

チームメートの結婚式でハカを実演するジョセフ

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 ジョセフの活躍の場は、サニックスにとどまらなかった。99年のW杯には、日の丸を背負って出場。当時の日本代表主将だったアンドリュー・マコーミックは「彼はオールブラックスの厳しさをもたらしてくれた」と感謝する。

 「手加減するのでは」。自身もニュージーランド出身のマコーミックはオールブラックスの実力を知るだけに、はるか格下の日本代表でジョセフがプレーすることに一抹の不安を抱き、手を抜かないよう求めた。「その通りだよ」。ジョセフは大まじめな顔で同意してくれたという。

 王国の代表を経験した選手は、日本代表の空気をも変えた。ミスをした日本選手に、ジョセフは声を荒らげた。「日本人は味方に少し優しかった。ジェイミーはオールブラックス時代と同じ態度で仲間に接し、全体のレベルを上げた」とマコーミック。まとうジャージーの色が黒から赤白に変わっても、一国を背負う意識と覚悟は健在だった。

 今の日本代表は「ワンチーム」を掲げる。一丸となって戦うスタイルは、宗像でのジョセフの成功体験に重なる。自身を「玄界人」と称し、「第2の故郷」で築いた仲間との絆。それこそが日本の指揮官の根幹を支えている。

<ジェイミー・ジョセフ> 1969年11月21日、ニュージーランド生まれ。同国代表「オールブラックス」として20キャップ、95年W杯では準優勝。同年から日本に拠点を移し、日本代表としても99年W杯に出場するなど、9キャップ。現役時代のポジションは主にフランカー。2003年の引退後、ニュージーランド・マオリ代表のHCなどを歴任。11年からスーパーラグビーのハイランダーズ(ニュージーランド)を率い、15年シーズンは優勝に導いた。16年から日本代表を指揮。

<ラグビーの代表資格> ラグビーでは、外国籍であっても日本代表としてW杯などに出場できる。理由については、ラグビー発祥国である英国からの移民が、移民先の国の代表になる慣習が継承されたと言われている。欧州や太平洋の島しょ国などでも、10人前後の外国籍選手が代表に選ばれている例はある。

 現在は、他国の代表の経験がないという条件で、本人や両親、祖父母が日本生まれであるか、日本に3年以上居住していれば、外国籍でも日本代表になれる。以前はジョセフのように別の国の代表経験があっても、日本代表に選ばれることは可能だった。

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