東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > スポーツ > 紙面から > 3月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【スポーツ】

<楕円球の絆 主将の「故郷」> ラグビー代表の要 リーチ・マイケル

「日本育ち」の誇りを胸に、日本で迎えるW杯に挑むリーチ・マイケル=昨年11月、英国・トゥイッケナム競技場で(岩本旭人撮影)

写真

 「日本は第二の故郷」−。開幕まであと半年余りとなったラグビーのワールドカップ(W杯)日本大会で、2大会連続で主将の重責を担うことになりそうなリーチ・マイケル(30)。体も細く技術も未熟な高校生でニュージーランドから来日し、文化も学びながら青春時代を過ごした。選手として、人として成長した日本を愛してやまず、今や国籍も取得。「世界はようやくジャパンの良さを分かってきた。もっとリスペクトされたい」。情熱の源には「日本育ち」という誇りがある。 (対比地貴浩、敬称略)

 2004年6月下旬、新千歳空港。札幌山の手高ラグビー部コーチの黒田弘則(47)は目を疑った。強豪ニュージーランドの年代別州代表に選ばれた逸材を留学生として迎えにきたのだが、到着ロビーで不安げに右往左往していた少年は「モヤシだった」。当時15歳のリーチだった。

 今では身長190センチ、体重110キロの巨漢だが、当時は178センチ、78キロ。スクラムなどを担うFWとしては、日本人と比べても細かった。くりっとした目の愛らしい顔とシャイな性格も、闘いのイメージとは正反対。案の定、練習では体格で上回る日本人に吹っ飛ばされた。ラグビー部初の外国人選手という「助っ人」的な期待は霧散し、監督の佐藤幹夫(57)は、むしろ「試合に出して大丈夫か」と不安を抱いた。

 だが、その印象は1カ月後に出場した試合で一蹴された。相手の重量級のトンガ出身選手を足元への鋭いタックルで倒し、「これは大物になる」と佐藤をうならせた。判定に不服があれば主審に食ってかかるなど、闘志をむき出しにしたこともあった。

 母国の芝ではなく、硬い不慣れな土のグラウンドでも、激しいプレーをいとわない。両膝は常に擦り傷だらけで、見かねた佐藤はバレーボール用のサポーターを買い与えた。近くの山でのランニングや坂ダッシュなど、日本独特のきつい走り込みにも耐えた。自主練習にも励み、雪深い冬には校舎内を走ることも。黒田は、夕方の薄暗い廊下で黒いウインドブレーカーのこすれる「シャカシャカ」という音が響き、すれ違ったときに「最初は姿が見えず、驚いた」ことを覚えている。

 自ら望んだ日本行きだった。裕福でない家庭に育ち、日本で生活の糧を得て、親孝行する。留学の手段だったラグビーで一定の成功がなければその先を見通せないため、トップ選手になるために「必死に考えて、考えて、考えた」という。当時主将だった森山展行(32)は、異国で猛特訓に食らい付く姿に「気持ちが熱く、魂を感じた」。ひたむきな態度で仲間の信頼を勝ち取ると、3年連続で主力として全国高校大会も出場した。

 聖地の「花園」では悔しい思い出ばかり。1、2年の時は2回戦負け。「外国人なのに、たいしたことないやん」という言葉も耳にして涙がにじんだ。3年では初戦敗退。「勝負にならなくて意識が変わった」とリーチ。王国ニュージーランド出身という自信は消え、弱小と思っていた日本でラグビーに没頭していくことになる。

◆文化教えた「札幌の両親」

森山家の墓参りで、久美子(後列(左))や展行(前列(中))らと記念写真に納まるリーチ(前列(左))=森山家提供

写真

 日本には「両親」もいる。最初の生活拠点となったのが、ホームステイした主将の森山の自宅。森山の父修一(67)と母久美子(63)のことを、リーチは今も「お父さん、お母さん」と呼んで慕う。

 「特別扱いはしなかった」と修一は振り返る。2人とも英語はできなかったが「日本で生活するなら日本語の習得は必須」と考え、リーチとの会話は、片言でも日本語にこだわった。久美子はリーチに与えた4畳半の部屋の天井に五十音のひらがな表を貼り、学習を手助けした。ただ「覚えられなかったそう。部活で疲れて、すぐ寝ちゃったって」。それでも「家族」との会話を通じてリーチの日本語はぐんぐん上達した。

 食事面では適応力に驚かされた。すし屋を営む修一さんのにぎりずしはもちろん、納豆や大根おろしも嫌がらずに食べた。はしも使え、「フォークとナイフは出さなかった」と修一。実は、リーチが日本に興味を持ったきっかけは、ニュージーランドの幼なじみの母親が日本人で、和食をごちそうになったことだったのだ。毎日の昼食は、久美子の手製弁当。1・5合ほどの白飯に豚カツやミートボールなどのおかずを豪快にのせた大きな緑色の弁当箱は、いつも空になって返ってきた。

 休日には一緒に買い物や外食へ。お盆には森山家の墓参りにも同行するなど、日本の文化や慣習も知った。「自分の子どもと同じように育てた」と久美子は話す。

 05年4月、久美子が修一のすし屋を手伝うようになり、リーチの面倒を見られなくなったことから、ホームステイ先が変わった。10カ月を過ごしただけだったが「森山家を出たくなかった」とリーチは言う。その後は札幌市内を転々とホームステイし、最後は新設された学校の寮に落ち着いたが、ことあるごとに森山家を訪ねた。

 細かった体は、「日本で最初に食べた森山家の食事がおいしかったから」と順調に大きくなり、3年時は187センチ、94キロに。日本語も漢字を書けるまでになった。

 札幌山の手高の留学生は、1年ほどで帰国する例も少なくない。3年ほどを過ごし、日本の家庭も知ったリーチには、当時の日本の高校生の純朴さが漂い、単なるスポーツ留学生とは趣を異にした。「だから特別なんです」。当時の家族写真に納まる、か細くあどけない「リーチ少年」の姿に、久美子は目を細めた。

◆「モヤシだった」少年 努力の15年

高校時代、他の1年生と一緒に用具を持って練習の準備に向かうリーチ(右)=札幌山の手高提供

写真

 高校卒業後、リーチは進学した東海大でさらなる成長を遂げた。同期の親友で、今はトップリーグの日野に所属する木津武士(30)は、「すごい選手がたくさんいたから。筋力の数値やぶつかり合いで、リーチを上回る選手がいた。彼でもうかうかできなかったはず」と振り返る。同期のFWだけでも、後に日本代表になる木津や三上正貴(東芝)ら猛者ぞろいだった。

 厳しい競争に直面し、リーチは意識を変えた。休日に遊びに誘われても「俺には向かない」と断ることもしばしば。「恥ずかしがり屋で、女性に声を掛けろと言っても照れちゃって」と木津が笑うように、ストイックなだけが誘いを断った理由ではなかったようだが、それだけラグビーに没頭していたのも事実だ。

 1年で東海大のレギュラーをつかみ、2年で日本代表に選出。主将としてチームを率いて南アフリカを破った15年W杯への道筋を、大学時代に着々とつくっていった。

 30歳になったリーチに、今や「モヤシ」の面影はみじんもない。「日本にはいい選手がいっぱいいる。それを世界に証明したい」。間もなく来日から15年がたつ。今は日本代表の長期合宿で、W杯本番に向けてトレーニングを積む毎日。人生の半分を生きた「故郷」で開かれる大舞台を、心待ちにしている。

<リーチ・マイケル> 1988年10月7日生まれ、ニュージーランドのクライストチャーチ出身。トップリーグの東芝に入った11年、ニュージーランド大会でW杯初出場。15年イングランド大会では主将を務め、過去最多の3勝を挙げたチームに貢献。スーパーラグビーではチーフス(ニュージーランド)でプレーした後、昨年からサンウルブズに所属。13年には日本国籍を取得した。ポジションは主にフランカー、ナンバー8。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報