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【スポーツ】

<楕円球の絆 小兵の大志> 166センチのSH 田中史朗

昨年11月のイングランド戦で、大黒柱として日本代表を引っ張る田中史朗=ロンドン郊外のトゥイッケナム競技場で(岩本旭人撮影)

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 小さな体で、逆境を乗り越えてきた。9月に開幕するラグビーのワールドカップ(W杯)日本大会で、3大会連続3度目の出場を目指す田中史朗(34)。身長166センチと小柄で、飛び抜けた才能があったわけでもなかった。それでも「自分をアピールすることが大事」。負けん気を引き出してくれた人との出会いがあり、あふれんばかりの闘志をグラウンド内外でむき出しにする。「小さな超人」は、日本のSHの第一人者となった。 (対比地貴浩、敬称略)

◆闘志の塊「最高峰」で存在感

 2013年2月22日、日本ラグビーの歴史が動いた。ニュージーランド、ダニーデンでのスーパーラグビー(SR)シーズン初戦。ホームのハイランダーズの背番号20をまとい、田中は後半26分にピッチに立った。世界最高峰の南半球リーグに、日本人選手が初出場した瞬間だった。

 童顔の五厘刈りという少年のような姿だが、「ベビーアサシン(小さな暗殺者)」と評されるほどの激しい闘争心が持ち味だ。大柄な猛者に交じり、巧みにパスを供給。守備では足元にタックルを突き刺す。わずかな時間で存在感を示し、「日本人の道ができた」と笑みを浮かべた。

 強気の姿勢で世界に挑めたのは、「師匠」の存在が大きい。トップリーグ(TL)の三洋電機(現パナソニック)に入団した07年からハーフ団を組んだトニー・ブラウン(44)=現日本代表コーチ。ニュージーランド代表「オールブラックス」も経験したSOは、新人だった田中にもレベルの高いプレーを要求。考えなしにパスを出せば容赦なく声を荒らげ、状況判断の重要性を説いた。田中は「ほんまに怖かった」と戸惑いつつ、貪欲に教えを吸収した。

 ブラウンに深く傾倒し、10〜11年シーズン限りで引退を告げられた際は「あと1年やって」と泣いて懇願した。「分かった」と答えてもらい喜んだのもつかの間、結局そのまま引退してしまい、ずっこけたのもいい思い出だ。

 だが、2人の関係には続きがあった。田中は12年に、ブラウンがヘッドコーチ(HC)を務めるオタゴ州代表に加入した。そこでの活躍が認められ、ハイランダーズ入りが実現したのだ。

 SRでは「自らの考えを主張すること」の大切さを学んだ。13年にハイランダーズのコーチになったブラウンは、指揮官のジェイミー・ジョセフ(現日本代表HC)と練習内容を巡ってけんかしていたという。強化のためには妥協しない姿に「間違ったままではダメ。意見を言わないと」と感銘を受けた。

 15年W杯イングランド大会。日本代表の中心となっていた田中は、選手から恐れられたエディー・ジョーンズHCに盾突いた。目的を説明されずに厳しい練習が毎日続くと、「意味がない」と直言。口論にもなったと言うが、こうした意見のぶつかり合いから互いの理解が深まり、一体感が高まったチームは史上最多3勝を挙げた。

 W杯日本大会へ向けた日本代表で、再び師弟関係になった田中とブラウン。教え子は「彼がいたから、ここまでなれた」と感謝を惜しまない。

◆非力な「小学生」からU19代表に

2013年2月、スーパーラグビーに初出場した田中史朗(左端)=ダニーデンで(ゲッティ・共同)

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 監督やコーチとけんかしてでも妥協せず、勝利を追求する姿勢は、基礎を築いた若き日の経験からもきている。

 中学までは「ラグビーが好きではなかった」が、友人がやっていたので何となく続けていた。ドラマ「スクールウォーズ」のモデルとなった公立の強豪、伏見工高(現京都工学院高)に進んだのも「お金がなかったから」。

 「小さくて小学生かと思った」。監督だった高崎利明(57)=現ゼネラルマネジャー=は振り返る。スクラムからのパスがSOまで届かないこともあった非力な「小学生」はエリートとの実力差に直面。猛練習にも苦しみ、「辞めたい」と何度も弱音を吐いた。

 踏みとどまれたのは、同期の桜谷勉(34)=元NEC=の存在が大きい。ともに入部時は無名だったが「絶対見返そう」と意気投合。筋力トレーニングでは「桜谷が1回多くやったら、俺はさらに1回やった」。筋肉の元になるタンパク質を摂取するため、高価なプロテインの代わりにきな粉を水で流し込んだ。桜谷は「最初にフミ(田中)が変わったポイント」と振り返る。

 努力のかいもあり、2年時にはレギュラーに。だが迎えた秋の全国高校ラグビー府大会決勝で、最大の挫折が待っていた。重圧から浮足立ち、落ち着かせようとベンチからの指示も耳に入らず、ミスを連発した。試合に敗れ、「先輩の代を終わらせてしまった」と涙に暮れた。

 この敗戦で、田中は「本気になった」。まず始めたのが当時は「スーパー12」の名称だったSRの分析。録画した試合を毎晩見て研究した。朝練の前には高校近くの伏見稲荷大社で、起伏のきつい参道を走り込んだ。夏合宿では「超早出特訓」も。午前3時半に起き、全体練習が始まるまで3時間近くパス練習した。主将の田中渓介(34)=元神戸製鋼=は「ポールに向かって黙々と放っていた」と驚いたのを覚えている。

 「ボールが友だち」になったのもこの頃だ。楕円(だえん)球を手になじませようと常に持ち歩いた。合宿の食事中は太ももの上に置き、就寝時は抱いて眠った。夏休みが終わり、授業中も持っていたときは、さすがに怒られたという。田中は「いま振り返ると、気持ち悪い」と笑う。

 迎えた高校最後の冬、全国高校大会に出場し、ベスト4進出。U−19(19歳以下)日本代表にも選ばれた。本家のスクールウォーズ顔負けの猛烈な努力で、同世代のトップ選手へと変貌を遂げた。

◆勝利へ一途 常識破りの貪欲さ

京産大時代の田中(左)と樋口

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 高校卒業後に進んだ京産大では、入学早々に「騒動」を起こした。連日にわたり筋肉を酷使するトレーニングに我慢できず、名将・大西健監督(69)に直談判。顔を殴って気合を入れて監督室に乗り込むと、「(このトレーニングに)何の意味があるんですか」ともの申した。

 先輩の樋口勝也(36)=元セコム=は「雑草を強くするためだった」と説明する。京産大は名門大と比べて人材で劣りがちなため、徹底的に追い込んで鍛え上げる練習をしていた。ただU−19日本代表で最先端のトレーニング方法を知った田中には、疑問に感じる部分もあった。樋口は「フミ(田中)にとっては、もっと効率のいい練習があったのかも」と理解を示す。直談判はその後も続いたという。

 一方で、当時黄金期の関東学院大に進んだ桜谷から最新の筋トレメニューを教えてもらい、独自に鍛えていた。そのトレーニングに付き合った後輩の今村六十(32)=同=は「言葉にならないぐらい、きつかった」。意味があると判断すれば、妥協せずに苦しい練習を自らに課した。

 常識を打ち破る数々の言動は、「本当に負けるのが嫌い」という勝利へのいちずな思いゆえ。グラウンドの内外で日本の要となる小兵。世界を驚かせるという大志を抱き、母国で迎えるW杯でもチームを引っ張っていく覚悟だ。

 <たなか・ふみあき>1985年1月3日生まれ、京都市出身。社会人2年目の2008年に日本代表に初選出され、11年ニュージーランド大会でW杯初出場。代表キャップ数は歴代5位の69。SRのハイランダーズで13〜16年までプレーし、17年からサンウルブズに所属。トップリーグでは3月にパナソニックを退団し、4月にキヤノンへ移籍した。

 

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