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【スポーツ】

<楕円球の絆 泰然たる闘士> 頼れるベテラン 堀江翔太 

スーパーラグビーの試合で、突進するサンウルブズの堀江翔太(左)=2018年3月、秩父宮ラグビー場で

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 泰然自若。9月に開幕するラグビーのワールドカップ(W杯)日本大会への強化を進める日本代表で、最前列中央でスクラムをコントロールするフッカーの堀江翔太(33)ほどこの言葉がふさわしい選手はいない。いつでも冷静でユーモアも忘れず、誰からも頼られる存在だ。「根がめっちゃ、まじめやから」と朗らかに笑うベテランのしなやかな精神力は、エリート街道ではない楕円球人生を歩んだがゆえに鍛えられた。その分厚い胸の奥に、今も不屈の闘志を秘める。(対比地貴浩、敬称略)

 1996年春、大阪府吹田市の吹田ラグビースクールの練習場。小学5年の少年は大柄な体に似合わず母親にしがみつき、なかなか練習に加わろうとしない。その気弱な子が堀江だった。当時のコーチ、林典宏(64)は「静かな子」との印象が強かった。

 それまでやっていたサッカーがいまひとつ楽しめず、親の勧めでラグビーへ。「とても不安だった」と堀江。他の子どもたちは仲間意識が強く、引け目を感じた。だが不安はすぐに消える。6年生の時点で身長175センチ、体重77キロとひときわ大きかった。体格とパワーが大きくものをいう競技。サッカー仕込みの走力も生かし、ボールを持てばゲインを重ねた。気弱でも巨漢に育った少年は、すぐにチームの中心選手となった。

 開花した才能をさらに刺激する体験も得た。小学6年の11月。大阪・花園ラグビー場で開かれた府内のスクールが一堂に会す大会に参加すると、同世代の選手のうまさに驚いた。林によると堀江は、試合の空き時間に仲間が遊んでいるのを横目に、他のチームの選手の動きを目に焼き付けようと食い入るように見ていた。「また、ここでプレーしたい」。この経験が高校ラガーマンの聖地「花園」へのあこがれとなり、常に高みを見据えるきっかけとなった。

 中学ではラグビー部がなく、バスケットボール部に入った。部活に熱中する一方、日曜に実施されるラグビースクールにも時間を見つけて参加した。この3年間が「今の原型をつくった」と林は見る。

 スクールのモットーは「エンジョイ」。FWがボールを持って相手にぶつかっていくべき場面でも、自由にパスすることが許された。他チームに「あれは駄目」と批判されたこともあったが、社会人からラグビーを趣味で始めた林は「楽しいのが一番」と自由を許した。堀江はバスケで磨いたパスをラグビーで生かし、バックス顔負けのパサーとなる礎を培った。

 中学3年の夏、吹田市や周辺自治体のスクールで選抜チームをつくることになった。堀江も実力が認められて選出された。だが、誇らしげだった林に教え子は告げた。「バスケに集中したいです」。バスケ部で主将を任され、中学最後の大会も控えていた。

 堀江は「高校ではラグビーをやる」とも言った。林はその言葉を信じて折れた。辞退を申し出て非難されたのも、今ではいい思い出。「彼の人生だから。選抜チームの人たちは残念がったが」。気弱だった少年はいよいよ、ラグビーに専念する決意を固めた。

◆「公立から花園へ」 挫折糧に

試合でもひときわ大きな体が目立つ小学生時代の堀江(右端)=吹田ラグビースクール提供

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 意外な選択だった。「花園」で開かれる全国高校大会を超激戦区の大阪から目指すには、私立の強豪でなければ至難の業。だが堀江が入学したのは府立島本高だった。同高は花園に過去4度出場の実績もあった。当時の監督、天野寛之(59)は「公立で全国へ、という子がそこそこ来てくれた」と振り返る。

 環境面のハンディは否めなかった。「高いボールは要注意」が島本高の決まり。ボールを蹴り上げると、防球ネットを越えてグラウンドに隣接する名神高速道路に飛び込む恐れがあるからだ。夕方の練習でも、日が落ちれば土のグラウンドを数個の工事現場用ライトで細々と照らすのが精いっぱい。「バックスのパス回しは、よう見えん」と天野は苦労した。

 それでも「打倒、私学」の情熱が勝る。多くの部員がグラウンドでの練習を終えると、体育館脇の敷地をビニールシートで囲った「筋力トレーニング室」に直行。ダンベルで1時間ほど体をいじめ、プロテインを飲み干した。堀江もその1人。「負けん気の強い先輩を見て育った」(天野)。私立に環境で負けても、向上心では負けなかった。

 3年冬の府予選。島本高は準決勝で当時全国制覇を4度成し遂げていた大阪工大高(現常翔学園高)を倒した。だが私立の壁は厚い。決勝では、こちらも日本一の経験がある東海大仰星高に12−36の完敗。強豪に勝つ喜びを味わえたが、それ以上に勝つ難しさを改めて思い知らされた。

 挑戦は失意に終わったが、堀江がその未練を漏らす姿は天野の記憶にはない。高校ラグビーの聖地は経験できなかったが、その苦い思いを次の成長につなげて今がある。「胸に秘めたものを感じる。日本代表にいけば、花園に出ている選手ばかりやから」と天野。並大抵の努力では夢には届かない。厳しい現実を知った高校生活だった。

◆「V9」の風格先駆け体現

帝京大4年の夏合宿で、女子マネジャーの誕生日を祝う堀江(前列左から2人目)ら。主将としてピッチ外でも仲間と絆を深めた=浜田さん提供

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 「ま、こんなもんやろ」。高校卒業後、帝京大に進んだ浜田宇功(33)=たかのり、元NTTコミュニケーションズ=は、大阪から上京してきた同期の堀江の淡々とした口癖を鮮明に覚えている。たとえば過酷な走り込みが課されたとき。「ま、こんなもんやろ」。誰もが苦しい表情の中、涼しい顔を崩さない姿に「どんなつらいことも、ひょうひょうとこなす」と驚いた。

 早大と関東学院大の2強時代で、後に前人未到の9度の大学日本一に輝いた帝京大もまだ新興勢力。当時は部員の中で士気に温度差があったが、堀江は一貫していた。監督不在時に練習の空気が緩んでも「そんなの関係ない」と手を抜かない。食事にも気を使い、周囲がカップラーメンだけで済ましても自炊をしていたという。4年では主将を任され「常に堂々としていた」と浜田は振り返る。

 在籍時に頂点には届かなかったが、卒業した次のシーズンに関東対抗戦を、その1年後に全国大学選手権も初制覇。規律の高さが象徴する帝京大の勝者の文化が始まった。堀江は「V9」に先駆けて、それを体現していた形だ。

 トップ選手になった今も、自身のラグビー哲学を背中で示す姿は変わらない。「年寄りは行動より口が立つから」と小言を言いたくなる感情を抑え、伸びしろ豊かな若手との競争をけん引している。

 W杯では自国開催という、経験したことのない重圧にさらされる。ピッチで的確な判断を下すには冷静なベテランが不可欠だ。「普通に頑張ります」と堀江。のるかそるかの大一番でもドレッドヘアのひげ面は、顔色一つ変えず指示を出してくれるはずだ。

<ほりえ・しょうた> 1986年1月21日生まれ、大阪府吹田市出身。帝京大卒業後の2008年から、トップリーグの三洋電機(現パナソニック)に所属。09年に日本代表の初キャップを獲得し、W杯は11年ニュージーランド大会と15年イングランド大会に出場した。スーパーラグビーでは13、14年にレベルズ(オーストラリア)でプレーし、16年からサンウルブズに在籍。180センチ、104キロ。

 

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