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【スポーツ】

<楕円球の絆 新時代の韋駄天> 慣習破った逸材、松島幸太朗

 新時代の日本ラグビーを象徴する存在だ。20日に開幕するワールドカップ(W杯)日本大会で、エース級の働きが期待される松島幸太朗。父の祖国であるジンバブエにもルーツを持つ26歳は、類いまれなスピードと俊敏性を備えている。高校を卒業してすぐに海外でプロに挑戦し、日本選手としては新しい道を歩んできた。世界を当たり前のように意識してきた韋駄天(いだてん)は自国開催の大舞台で「絶対、自分の名を世界中に広めたい」との野心を抱く。 (対比地貴浩、敬称略)

◆高校卒業後プロ挑戦 「第二の故郷」へ

生まれ故郷の南アフリカで、父ロドリック(左)と写真に納まる幼少期の松島=家族提供

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 2015年のW杯イングランド大会。日本は南アフリカを倒す世紀の番狂わせを起こした。WTBとして先発した松島は「今までの勝利で最高にうれしかった」。南アはW杯で過去2度優勝の強豪であり、松島にとっては「第二の故郷」でもある。不思議な縁を感じた瞬間だった。

 ジンバブエ人の父ロドリックと母多恵子(55)の一人息子として、南アのプレトリアで生まれた。6歳の時に東京都内に移住。近くの大きな公園に自転車で向かい、サッカー好きの父とボールを思い切り蹴り合うのが楽しみだった。

 小学校やサッカークラブの子どもからは、褐色の肌をからかわれた。だが松島は、教師やチームの指導者にやめるよう抗議したという。「ノーならノー。意見を伝えることが大事」という多恵子の教えによるものだった。自他ともに認めるシャイな性格だが、必要な時は強く考えを主張する子に育った。

 両親の方針で中学1年の冬から1年間を南アで過ごした。現地で盛んなラグビーを始め、競技に魅了された。帰国後に強豪の神奈川・桐蔭学園高に入学すると1年でレギュラーに。同期の竹中祥(27)=NEC=は「もの静かなのにラグビーでは熱かった」と懐かしむ。

 高校2年の1月、記者として南アで活動中のロドリックが47歳で急逝した。松島はショックで2日間ほど自室に閉じこもったという。ちょうど高校日本代表の合宿に呼ばれていた。「ラグビーに救われた」と多恵子。合宿に参加し、楕円球を追った。父の死に直面してなおラグビーを欲した自身と向き合い、この競技を究めようと心に決めた。

 海外でのプレーを意識し始めたのもこのころ。周囲の勧めで、卒業後は土地勘のある南アでプロに挑むと決めた。松島ほどの逸材なら、日本の強豪大に進むのが一般的。だが多恵子は、「南アに行けばいい」と背中を押した。

 多恵子は30年ほど前、非政府組織(NGO)の研究員として南アのアパルトヘイト(人種隔離)の問題に携わった。両親に黙って単身で南アの黒人居住区に滞在し、黒人差別の現場を目撃した経験があった。だから息子の選択を尊重した。生前の父からは、うるさいぐらい「勉強もしろ」と諭されていた。だが「得意なもので結果を出したかった」と松島。自らの考えで大きな決断をした。

◆「甘えるな」恩師らの激励で改心

南アフリカでラグビーを始めた中学時代の松島。現地では芝のグラウンドが一般的で、はだしでプレーすることも=家族提供

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 「お前、甘えてんじゃねえぞ」。受話器から聞こえてきたきつい説教が、物憂げな松島の耳元で何度も響いた。

 高校卒業後の11年、南アのダーバンを本拠地とする世界最高峰リーグ、スーパーラグビー(SR)の「シャークス」の下部組織に入った。その1年目のことだった。説教の声の主である四宮洋平(40)は「プロの自覚が足りなかった」と振り返る。

 南ア行きを勧めたのは四宮だった。桐蔭学園高の先輩。国内チームや日本代表で活動後、南アなど数々の海外プロチームに所属。その経験を買われ、同高監督の藤原秀之(51)から松島の海外挑戦について相談され、サポートを快諾した。

 だが大人たちの熱意とは裏腹に、現地に渡った松島の意欲はしぼんでいく。世界トップ級の体とパワーを備える選手がひしめき、小柄な松島はけがが絶えなかった。思うようにプレーできず、四宮との電話では言い訳が増えた。

 たとえば路線バスが時刻表通りに来ず、練習場への行き来に不満を漏らした時。四宮は「だから車の免許を取れって言っただろうが」と一喝。公共交通が貧弱な現地事情を踏まえて助言し、車も提供する計画まで立てていた。それでも松島は免許を取らず、文句も言ったため堪忍袋の緒が切れた。けがで練習を休むと言われた時は「水持ちでも何でもやれ」としかった。

 甘えを一切許さなかったのは、期待の裏返し。四宮自身も、高校卒業後に海を渡りたかったが「そこまでの才能がなかった」。才能に恵まれた松島が弱音を吐くのは、許しがたかった。

 改心しきれない松島に転機が訪れる。南アで1シーズンを終えて帰国後、20歳以下の日本代表から声が掛かった。参加したかったが、代表活動と南アでの挑戦の両立は厳しい。迷っていると、藤原から突き放された。「おまえは(南アで)何も成し遂げていない」。数日後、松島は「南アに戻ります」と告げる。やすきに流れようとした甘えを恥じ、退路を断った。

 その後は別人のようにキャリアを重ね、3シーズン目には南アの20歳以下代表からオファーも舞い込んだ。だが、一度南アの代表になってしまうと、日本代表の資格を失う。松島は桜のジャージーに袖を通す夢を選ぶ。ラグビー選手として自信を得て、13年に帰国。サントリーに加入すると、その年のうちに日本代表の初キャップも獲得した。

 「南ア代表の方が良かったのでは」と藤原。冗談交じりに笑う表情には、満足感も漂う。藤原と四宮が中心となって手掛けた「松島プロジェクト」は、紆余(うよ)曲折を経て大きな実りを得た。

◆「日本のエースに」

楕円球を持って快足を飛ばす松島=熊谷ラグビー場で

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 いよいよ迎える日本でのW杯。知人に個人の目標を聞かれて、松島は「日本のエースになる」と明言したという。

 今大会は本職のFBではなく、15年W杯と同じWTB起用が濃厚。7〜8月のパシフィック・ネーションズカップではWTBで全3試合に先発し、チームトップに並ぶ3トライを挙げた。「どのポジションでも持ち味を出せるかどうか。そういう緊張感を楽しめたら」と点取り屋として暴れる決意にあふれている。

 幼いころから海外に触れ、慣習にとらわれない大人の支えも得て才能を開花させた。そのラグビー人生は多くの海外出身者と日本人が混在する日本代表でも先駆的だ。「(大きな相手に対して)恐怖心はあまりない。南ア行きは正しかった」。体が一回りも二回りも大きい強豪国の若手としのぎを削った経験は、今も生きる。国際試合でも気後れしない精神力は、世界の一流選手が集う大舞台でこそ頼りになる。

 自国開催のW杯で目指すは史上初の8強以上。仲間がつないだボールを抱いて駆け抜け、日本ラグビーの新たな歴史を切り開く。

<まつしま・こうたろう> 1993年2月26日生まれ。15年W杯イングランド大会では全4試合に先発出場。SRでは15年にワラタス、16年にレベルズ(ともにオーストラリア)、17〜18年はサンウルブズに所属した。日本代表では34キャップ。

 

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