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【栃木】

「鑁阿寺十二坊」千手院と龍福院 境界の溝跡を確認 足利市教委

千手院と龍福院を隔てる溝跡について説明する市教委職員=足利市で

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 足利市家富町の名刹(めいさつ)・鑁阿(ばんな)寺の周囲にかつて配置されて寺を管理したとされる十二の小寺院「鑁阿寺十二坊」のうち、鑁阿寺の西側にあった千手(せんじゅ)院と龍(りゅう)福院を隔てる溝跡(みぞあと)が確認された。区画整理に伴い調査していた市教育委員会が二十二日、発表した。二十四日に一般を対象にした現地説明会を開く。

 鑁阿寺は一一九六年に足利義兼が開基した真言宗大日派の本山。その子義氏(よしうじ)が寺の北、西、東に接する小寺院を配置し、鑁阿寺十二坊が生まれた。当番制で寺の管理と運営を担ったという。明治初期に千手院(現・足利幼稚園)を除いて民間払い下げが行われ、宅地化したため、境界が曖昧になっていた。

 市教委の調査は二〇一七年度に始まった。江戸時代の様子が描かれた絵図「鑁阿寺境内絵図」(足利市民文化財団所蔵)などを参考に、千手院とその南に隣接する龍福院の境界と推測された三地点五カ所を掘削して調べたところ、東西に伸びる溝跡が見つかった。

 溝跡は深さ約一・六メートルで二・八〜四・三メートルの幅がある。掘った時期は特定できないが、十四世紀後半〜十五世紀後半の素焼きの土器や青磁片などが見つかっている。市教委は「十二坊の痕跡を伝える貴重な成果を得られた」と評価する。

 また、四軒の竪穴住居跡も見つかり、さらに古い古墳〜奈良時代にかけての新田町(しんでんまち)遺跡の集落の広がりも確認できたという。

 現地説明会は二十四日午前十時〜正午。事前予約は不要で雨天決行。鑁阿寺西門から誘導員が案内する。 (梅村武史)

江戸時代の様子が描かれた「鑁阿寺境内絵図」の一部。道を挟んで右側が鑁阿寺、左側が千手院と龍福院

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