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【栃木】

<奥島孝康のさらに向こうへ>リベラル・アーツ 大局観と行動力を養う

 ぼくはいま、白鴎大学の学問をリベラル・アーツを中核とする方向へ改変したいと考えている。大学のこれまで歩んできた道を振り返ると、この大学のこれまでの歩みはもとより、学祖上岡一嘉先生の目指された方向もすべてその方向を指しているからである。

 では、リベラル・アーツとはどういう学問であろうか。一口で説明することは難しいが、一般には、「自由な心や批判的知性の育成、また自己覚醒を目的にした大学の教養教育の課程」(広辞苑第七版)と解されている。

 そして、もっと端的に言えば、「教養とは生きてゆくうえで必要な直感力と大局観を与えてくれる力だ」(藤原正彦「国家と教養」)とか、「大人になるための学問」(石井洋二郎・藤垣裕子「大人になるためのリベラルアーツ」)とかいわれている。

 そして、ぼくもまた、「リベラル・アーツ」とは「大局観と行動力とを身につけさせる学問」と考えている。それぞれ表現は異なるが、内容的には、ほぼ同じことを意味すると思われる。なぜなら、いずれもバランス感覚に富んだ教養を身につけた社会人を目指しているからである。

 ところで、リベラル・アーツは、古代ローマの「アルティス・リベラレス」に由来する。それは文法、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽の自由七科を内容とし、知識・経験・思考の限界、とりわけ、狭い専門性という領域の限界から人を自由にする(解放する)ための知識や技能を意味する。

 しかし、ここで当然の前提とされることがある。それは教養人とは専門人ではないということを決して意味しない。それどころか教養人は専門人でなければならないのである。

 ともすれば、「無教養の専門バカ」などと揶揄(やゆ)されるのは「一般教養」(いわゆる「パンキョウ」)であり、リベラル・アーツでいう「教養」とはむしろ「専門」と並ぶものであり、教養こそが専門をよりよく活(い)かすものである。

 大局観とかバランスのとれた行動力はまさしくそれを指すものといえよう。

 一般に、ドイツ人は観念主義者であるが、イギリス人は経験主義者といわれる。その当否は別として、民主主義は古代ギリシャで成立するが、すぐに否定される。

 ソクラテスですらも死刑とされる「民主主義の恐怖」のゆえである。投票が金銭で左右されるようでは、多数決に事の当否を委ねることはできないであろう。

 そして、ようやく民主主義が復活するのは、イギリス議会制導入八百年を経た十八世紀末のことである。

 当時のイギリスの議会は議員がすべて有閑の資産階級の貴族であったため、買収がほとんど不可能であり、「ノーブレス・オブリージュ」(貴族たる者相応の義務を負う)という貴族の自負もあって、民主主義が成立したと言われている。

 それは、具体的に言うと、戦時においては、貴族たる者は最も矢弾を受ける第一線に立ち、平時には最も大きな金銭的負担を負い、慈善事業等に多大な貢献をすべきことを意味するのである。

 それゆえ、民主主義においては、あらゆる角度から人間としてのバランス感覚が問われるのである。

 つまり、「古典の精神を学び、人格の陶冶(とうや)を図る」という教養主義が求められたのである。それゆえ、「人格の陶冶」がプルス・ウルトラの究極の目標であることは言うまでもない。

 しかし、リベラル・アーツで大切なことは、いくら方向性が明らかになっても、実際にその方向へ舵(かじ)を切らなければならないことである。それゆえ、どんなにバランスのとれた大局観に立とうとも、実際にそれを実現する人間としての行動力をも備えている必要がある。それは経験から学んだ行動力であろう。

    ◇

<おくしま・たかやす> 愛媛県日吉村(現鬼北町)生まれ。早稲田大第一法学部卒。同大第14代総長。同大ラグビー部長、探検部長、日本私立大学連盟会長、日本高校野球連盟(高野連)会長などを歴任。ボーイスカウト日本連盟理事長、2013年から白鴎大学長。79歳。

 

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