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【栃木】

<奥島孝康のさらに向こうへ>白鴎大改革への思い 学問に血を通わせよ

 いまぼくの手元に『白鴎の心』と題する一冊の書物がある。いうまでもなく学祖上岡一嘉先生をしのぶ文集であり、「大学創設者の回想と継承」とサブタイトルが付されている。およそ百名余りの友人・教職員・卒業生たちの寄せた文集には、いかに上岡先生が大きな夢をもった熱い人間であったかが活写されている。

 本書中において執筆者たちが異口同音に述べるところによると、学祖上岡先生は、大学の国際化のために語学を重視し、情報化社会に対応するために情報処理教育を強調したことが一様に述べられている。

 当然のことながら、これら二点はいまなお白鴎大学の教育の根幹となっている。

 上岡先生自身もこのことをきわめて情熱的に説き、そのエネルギッシュな取り組みはほとんど求道者ともいうべき強い信念にもとづくものであった。

 上岡先生亡き後、第二代学長となった原田俊夫先生は上岡先生を評して、「信念に生き、活動力に燃え、くじけず、ためらわず前進を目指す学者であり、教育者であり、卓越した学校経営者でもあった」と述べ、「人様のためにつくしながら、惰性で過ごすことなく、仕事に打ち込んだ情熱的な人生を送れ」とたえず語っていたと述べている。

 ぼくは、こうした言説を読みながら、上岡先生の目指した教育とは、ほぼリベラル・アーツであろうと考えた。

 経営学部、法学部および教育学部の三学部に共通する語学教育と情報教育の重視。加えて地元産業への目配りとを考え合わせると、まさしくリベラル・アーツそのものといってよい。

 しかも、「若き情熱の学府」を目指す姿勢は、学問を学問に終わらせず、それに血を通わせるという強い意気込みを感じさせる。

 ところで、昔、高校生のころ笠信太郎の『ものの見方について』という書物で、「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。・・・・ドイツ人もどこかフランス人に似ていて、考えた後で歩きだす」という文章に出会い、妙に頭の片隅にひっかかっていた。

 リベラル・アーツ型の学問体系は当然のことながらイギリスの政治体制とよくマッチする。

 イギリス人は経験主義者であるから、とんでもない飛躍はなく、長く続いた議会中心主義の政治体制の中で着実に民主主義を育んできた。

 これに対し、フランス人やドイツ人は、フランス革命やナチスの時代にみられるように、観念主義者として、取り返しのつかない大きな犠牲を払った。

 しかし、現実と思想のバランスを慎重に考慮しながら歩くイギリスが安定的な政治的足取りを続けてきたのはその経験主義的改良主義的な歩みのせいであったといってよい。

 上岡先生は、リベラル・アーツの大学に「白鴎」の名を冠した。

 その源となったのは、杜牧(とぼく)の詩「漢江(かんこう)」。−溶溶漾漾白鴎飛(ようよう ようよう として はくおう とび)−であるともいわれるが、やはり、その根源はリチャード・バックの『かもめのジョナサン』であろう。英語に堪能な上岡先生には共感されるところが多かったのではないか。

 上岡先生は常々、「常に前進、三歩以上は駆け足」というくらいエネルギッシュな人であったから、カモメの優美な姿だけではなく、絶えず努力を怠らないジョナサンの生き方そのものにほれこんでいたのであろう。

 加えて、白鴎の出発は一九一五年に発足した足利裁縫女学校に始まり、その初代校長上岡長四郎のモットー「つよく、やさしく」にぴったりだったからでもあろう。

 こうして、白鴎大学は、期せずして当初からリベラル・アーツを目指す大学として出発することになっていたのである。

 ぼくは、この先はリベラル・アーツの旗を高々と掲げ、本学の学問体系に多少の変更を加えたいと思う。「プルス・ウルトラ」へ向けて。

<おくしま・たかやす> 愛媛県日吉村(現鬼北町)生まれ。早稲田大第一法学部卒。同大第14代総長。同大ラグビー部長、探検部長、日本私立大学連盟会長、日本高校野球連盟(高野連)会長などを歴任。ボーイスカウト日本連盟理事長、2013年から白鴎大学長。80歳。

 

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