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【栃木】

<奥島孝康のさらに向こうへ>パリ大での在外研究(2) 仏語のコツは幼稚園で

 パリに着いて六日目。ぼくはようやくパリ第一大学の事務所へ出頭したが、そこでも大騒ぎとなった。何ひとつフランス語のしゃべれない交換研究員が来たのである。

 筆談でやっと意思の疎通ができたものの、ぼくの周りに群がったパリ第一大の事務員たちは、こんな人間がフランス法を研究するとは…と、さぞかしびっくりしたことであろう。

 次に必要なことは、ともかくぼくがしゃべれるようになることである。ぼくはすぐさま「アリアンス・フランセーズ」の初級に入り、ア・ペー・セーから始めたが、これはなかなか楽しかった。

 二カ月で日常会話には不自由しなくなった。一年でパリ第二大学(旧法学部)の商法主任のエマール教授の大学院の授業に参加して、その授業を楽しむまでになった。

 六十人ほどの学生がいたが、授業が終わると必ずエマール教授から声をかけられ、スフロ通りのカフェであれこれ雑談するのを常とした。至福のときであった。ついでに触れておくと、授業の内容は思いのほか難しくなかった。

 この間、ぼくは娘を日本人小学校の一年生に編入し、息子をエコール・マテルネル(幼稚園)に入れた。二人とも毎日元気に通ってくれたので安心した。

 ぼくにとってなによりこの幼稚園がよかった。会話のコツをつかんだのである。幼稚園で息子と仲間たちの会話を聞いていると「ガニエー」(勝った)とか、「リュゼ」(ずるい)とか、要するに単語を叫んでいるにすぎない。

 これだと思った。それをもとに単語を叫んでいるうちに自然と長文がしゃべれるようになった。これが、自動車の免許をとる際にも役に立ち、短い言葉で意を伝えるコツを学び、次第に会話にも自信をつけていった。

 サマータイムのヨーロッパでは、夏など午後の九時すぎまでは太陽がカンカン照りである。そこで、子供たちが午後三時ごろには学校から帰ってくると、家族四人そろってドライブに出かける。

 北はコンピエーニュの森の中にあるピエールフォンの城、南はフォンテンヌブローの近くにある小さな街々など、ワラビを摘んだり、ネズミを追ったり、実に楽しいピクニックであった。お気に入りのピエールフォンなどは三十回くらい出かけたと思う。

 短い休みの多いフランスでは、二、三日の小旅行には随分出かけたが、夏のバカンスにも、何度も出かけ、一週間とか十日間の旅行もあちこち出かけ、フランスはほぼ全主要道路を走りまわった。

 その中でも心に残る旅は、ヘミングウェーの小説『陽はまた昇る』の舞台であるパリからスペインの闘牛の街パンプローナへの旅であった。スペイン国境を越えたピレネー山中のブルゲーテ村での二日間はとりわけ忘れられない旅であった。

 多分このあたりと見当をつけて入った「ホスタル・ブルゲーテ」がまさしくヘミングウェーの泊まった宿であり、宿泊客のフランス人三家族とイギリス人の若い作家家族とのヘミングウェーをめぐる雑談はいまでも心に残る楽しい夕べであった。

 その話題は日本の車やピアノのこともたくさん含まれていたので、とりわけ、くつろげたのかもしれない。

 おまけに、イギリス人一家の一人娘十二歳のクリスチーナと村の子供たちが、わが娘と息子を仲間に入れて一緒に遊んでくれ、二人ともとても楽しかったらしく、いつまでも思い出にひたっていた。

 とはいえ、人生最大のバカンスの三年間を楽しく遊んで暮らしていたばかりでは決してない。

<おくしま・たかやす> 愛媛県日吉村(現鬼北町)生まれ。早稲田大第一法学部卒。同大第14代総長。同大ラグビー部長、探検部長、日本私立大学連盟会長、日本高校野球連盟(高野連)会長などを歴任。ボーイスカウト日本連盟理事長、2013年から白鴎大学長。80歳。

 

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