東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 東京 > 記事一覧 > 8月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【東京】

空襲の惨禍忘れない 墨田の資料館でギャラリートーク

 東京大空襲の惨禍を体験記や体験画に残した人が当時を語るギャラリートークが、すみだ郷土文化資料館(墨田区向島二)で開かれ、体験者二人が戦争の記憶を振り返った。本橋桂子さん(81)=江東区=は降り注ぐ焼夷(しょうい)弾から逃れて避難する様子を絵に残していたが、公の場で証言するのは初めて。亡くなった母を思い出し、涙ぐむ場面もあった。 (大沢令)

◆江東・本橋さん 81歳 公の場で初証言

「あの空襲さえなければ」と話す本橋桂子さん=いずれも墨田区で

写真

 終戦五カ月前の一九四五年三月十日にあった大空襲。本橋さんは疎開した姉を除く両親と二歳の弟の四人で深川区(現江東区)で暮らしていた。空襲が激しくなり避難を迫られた。弟のおむつを替えていた母から「先に行って」と促され、「東陽公園の角で待っているからね」と約束して先に逃げた。

 かいまきに付いた火の粉を懸命に払いながら、母の姿を待ち続けた。大きな火の粉が容赦なく降り注いだ。「このままでは焼け死んでしまう」。後ろ髪をひかれる思いで逃げた。夜が明けて捜しに行ったが、母と弟の姿はなかった。男女の見分けも付かないほど、黒焦げになった焼死体がいたるところにあった。

 父は再婚したが継母になつけず、小学生の時に逃げ出しては連れ戻された。一人で母方の千葉の親戚を頼った。

 母と弟の遺骨は見つかっていない。「どこかで生きているかも」。中学生のころまでかすかな望みを抱き続けた。「私がもっと大きかったら母の手を引いて逃げられたかもしれない。母がいなくてつらい思いをした。あの空襲さえなければと思うと、憎らしい」。毎年三月十日は母や弟に会いに東京都慰霊堂を訪れる。

 本橋さんは「空襲を知らない人が増えているのは怖い。本当の地獄だった。どうしてあんな戦争があったのか伝えなければ」と勇気を出して重い口を開く決意をしたという。

◆三鷹・正木さん 86歳 火の塊で背中にやけど負う

「多くの犠牲の上に平和がある」と話す正木安喜子さん

写真

 もう一人の体験者は正木安喜子さん(86)=三鷹市。千葉県内での集団疎開先から本所区江東橋(現墨田区)の自宅に帰り、東京大空襲に遭った。十二歳の時だった。

 空襲が始まり、家族五人で都立三中(現両国高校)に避難。奇跡的に全員が助かったが、正木さんは重ね着したコートの中に飛び込んできた火の塊で背中にやけどを負った。校門を出ると焼け野原で、江東橋では遺体だらけだった。家族三人で寄り添うように亡くなっている遺体も目にした。

 そんな体験記を最近まとめた。正木さんは「非戦闘員の人が十万人も死んだのです。多くの犠牲の上に平和がある。東京大空襲を忘れてはならない」と力を込めた。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報