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【親子でぶらり 学べるスポット】

両国橋(東京都中央区・墨田区) かつて賑わった両たもと

(上)江戸期にはこの橋の両たもとに浅草にも匹敵する「繁華街」があった (下)江戸時代の絵図に描かれた両国橋(安政六年須原屋茂兵衛蔵板から)

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 いま隅田川にかかる両国橋を歩けば、渡る人もまばらで、橋はもっぱら自動車のためにある。それがかつて、橋は行き交う人でごった返し、両側のたもとは浅草と競うほど賑(にぎ)わっていたとは想像もつかない。

 明暦の大火(1657年)による死者は10万人を数えたという。猛火に追われ隅田の川端まで逃げながら、川を越えられず炎に焼かれた人が多数出た。江戸幕府は防備面から隅田川への架橋は抑えていたが、新たな橋造りを決断する。

 両国橋がかけられたのは1659年(61年とも)。当初の正式名は大橋だった。下流部に94年、新大橋がかかると、両国橋が正式名称となる。ふたつの国をまたぐからには、隅田川が下総と武蔵の国境(くにざかい)で、川向こうの地は下総だった?

 隅田川以東でいまの墨田区や江東区などは古代から下総の「葛飾郡」と呼ばれ、茨城県から千葉県、埼玉県、東京都を帯状に縦につらぬく巨大な郡だった。郡の南部地域が武蔵に編入されたのは、元和年間(1620年前後)とも寛永年間(1624〜44年)とも、また貞享3(1686)年とも。諸説あるようだ。

 両国橋ができたころは東岸も武蔵だった可能性があるが、「あっちは下総の国だったよね」「昔はここが国境だったんだよな」といった江戸庶民の意識から、俗称はすんなり両国橋に落ち着いたに違いない。

 橋のたもとには火除地(ひよけち)・両国広小路が設けられた。安藤広重や歌川豊春が描いた両国橋近辺は殷賑(いんしん)をきわめている。西広小路、東広小路とも見世物小屋(みせものごや)や茶店が立ち並び、屋台も数知れない。ただ、火除地なので恒久的な建物は許されず、移動可能な簡易な施設ばかりだった。橋の開通は本所や深川の発展につながっていく。 (小鷲正勝)

◆ひとこと

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 江戸前にぎりずしの考案者にちなむ「与兵衛鮨(ずし)発祥の地」の碑が東広小路近くにある。小泉与兵衛も両国橋辺りで屋台を出し、ほどなく「華屋」を構え、繁盛したという。

 ★メモ 東京都中央区東日本橋2と墨田区両国1を結び、国道14号が走っている。江戸初期の架橋時には木橋で、長さ約171メートル、幅約7.3メートルあったといい、緩やかな弧を描いていた。洪水や焼損により何度もかけ替えられた。鉄橋になったのは1904年。現在の橋は32年に完成し、長さ164.5メートル、幅24メートル。最先端の技術で造られ、当時は同じ隅田川にかかる言問橋、大阪市の天満橋と並び三大ゲルバー橋と称された。

●足を延ばせば…

 ★回向院 墨田区両国2の8の10、JR両国駅から徒歩3分。明暦の大火で身元や身寄りの分からない亡骸(なきがら)を葬るため創建された。その後も火災や風水害、震災で横死した無縁仏を葬った。各地の秘仏がやってくる出開帳で人気を集めた。境内で勧進相撲も行われ、現在の両国国技館につながっている。(電)03・3634・7776

 ★旧安田庭園 墨田区横網1の12の1、両国駅から徒歩5分。常陸笠間藩主が元禄年間(1688〜1704年)に築造したと伝わる。かつては隅田川から水を引いた潮入回遊庭園だった。明治初期に旧備前岡山藩主池田侯の邸宅となった。1889年には安田財閥の祖・安田善治郎が所有。1922年に東京市に寄付された。戦後は東京都から墨田区に移管された。入園無料。

 

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