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【親子でぶらり 学べるスポット】

奥州街道の宿場町 喜連川(栃木県) 公方の町、面影残る寒竹囲い

密生するオカメザサの特性を生かした寒竹囲い。かつては多くの屋敷で見られたが、いまは数えるばかり

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 「喜びが連なる、川のごとくに」。喜連川(きつれがわ)はなんともありがたい地名だ。この地に貧乏ながらも格式高い大名がいたことを知る人は少ないのではないか。

 喜連川家は足利尊氏の四男基氏が初代となった鎌倉公方に連なる家柄だ。鎌倉から離れて出た古河(こが)公方家、同家から分裂した小弓(おゆみ)公方家、いずれも戦国時代末期にはほぼ没落。両家を断絶の危機から救ったのが、小弓公方足利頼純(よりずみ)の娘嶋子(しまこ)だった。

 嶋子は喜連川城主の塩谷惟久(しおのやこれひさ)に嫁いだ。豊臣秀吉が関東の北条家を攻めた折、惟久は小田原に参陣せず、咎(とが)めを恐れて出奔する。嶋子はその後宇都宮まで北上した秀吉に会い、弁解に努めた。秀吉は嶋子の美貌に魅(み)せられ、側室とする。嶋子のとりなしか、秀吉は男子が絶えた古河公方家の氏女(うじひめ)に嶋子の弟国朝を娶(めあわ)せて復興させた。国朝が朝鮮出兵の途次に死去すると、氏女はその弟頼氏と再婚した。

地元の農家に移築された陣屋の裏門

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 喜連川公方家は江戸時代も存続。10万石の格式を得て、参勤交代や諸役が免除された。だが、実高は5千石。郷土の歴史に詳しい村上進さん(74)は「家臣は100人足らず。120石をとる家老もいたが、足軽などは7石。平均すれば10石に満たなかったのではないか」。奥州街道の宿場として参勤交代の大名らが落とす金銭は貴重な収入源だった。

 6代公方の茂氏が家臣を気遣った逸話がある。「屋敷の塀が板塀では補修が大変であろう。笹(オカメザサ)が密生するのを利用して生け垣にするがよい」と薦めた。戦前まで多くの屋敷でこの寒竹囲(かんちくがこ)いが見られたが、いまでは4、5軒に残るだけ。地元の荒井紀一郎さん(77)は「喜連川伝統の寒竹囲いを見直してほしい」と、ボランティアとともに町内で寒竹囲いを作っている。これまで2カ所ほど手掛けた。公方がいた時代の面影を引き継いでいる。 (小鷲正勝)

◆ひとこと

 塩谷惟久は「家臣の手引きで側室と娘と一緒に小砂(こいさご)(那珂川町)の豪農の元に身を寄せたようだ。その後水戸藩の家老の知遇を得て水戸藩に仕え、今も子孫が水戸にいると聞く」と村上さん。

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 ★メモ 栃木県さくら市喜連川。2005年に喜連川町と氏家町が合併し、さくら市に。市喜連川庁舎がある辺りに喜連川公方の陣屋があり、地元の人々は「御所」と呼んだ。当時の面影はほとんど残っていないが、陣屋裏門は地元の農家に移築され、いまも立っている。

●足を延ばせば…

 ★お丸山公園 源平合戦で戦功があった塩谷惟広(これひろ)が小高い丘陵に築いた大蔵ケ崎城(喜連川城、倉ケ崎城とも)の城址(じょうし)。約400年にわたって塩谷氏が居城とした。塩谷氏は1590年に滅亡。その後、入部した喜連川家が旗本並みの石高で、丘陵下に館(陣屋)を置いたこともあり、大蔵ケ崎城は廃城に。いまも空堀や土塁が残る。公園として整備され、現在は桜の名所。

 ★喜連川温泉 旧喜連川町で、1981年に温泉が湧出。市営もとゆ温泉や市営露天風呂、道の駅きつれがわ温泉、ハートピアさくらの郷など、町内各地に温泉施設がある。その泉質から「日本三大美肌の湯」のひとつに数えられる(他は佐賀県・嬉野(うれしの)温泉、島根県・斐乃上(ひのかみ)温泉)。また、JR東日本は温泉付き住宅を分譲している。

 

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