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【国際】

湾生懐かしむ昭和町 台北 旧在住邦人に戸籍謄本贈る

大石さん(旧姓渡邊)の戸籍謄本、左最後に名前が記載されている

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 台湾の日本統治時代、台北市の一角に「昭和町」という街があった。文字通り昭和の初期、当時の台北帝国大教授らが家を建て住んでいた。今は青田街などに名称変更したが、約50棟の日本家屋が今も残り、台北の観光スポットになっている。戦前に昭和町に住んでいた日本人たちが今月、現地を訪れ、地元住民と交流しながら、当時の思い出を語った。地元の大安区公所(区役所)は当時の戸籍謄本を探し出し、約74年ぶりに旧住民たちに贈呈した。 (台北・迫田勝敏、写真も)

 台湾で生まれ育ち、戦後引き揚げた日本人を「湾生(わんせい)」と呼ぶ。戦前の戸籍謄本の贈呈式は一日、区公所近くの大安森林公園で行われ、十一人の湾生が参加した。区長が謄本を手渡した。

 当時の謄本を受け取った中村治彦さん(86)=兵庫県在住=は「そりゃ、うれしいですよ」と感激。父は台北帝大教授で教授官舎に住んでいた。終戦で、手荷物と一人千円だけを持って引き揚げた。謄本は昭和町に住んでいた唯一の「証明」だ。

贈呈された戸籍謄本を手にする「昭和町」の旧住民ら=いずれも1日、台北で

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 中村さんは当時、総督府(現在の総統府)に近い台北第一師範付属小学校に通学していた。毎日歩いて約三十分。戦争が激しくなった昭和二十(一九四五)年三月に卒業したが、卒業式は実に簡素だった。日中は空襲があるため、午後四時に開始。父母も在校生もいない。教員から卒業証書を手渡されただけで終了した。それでも当時の仲間との絆は深く、「家族ぐるみの付き合いが今も続いている」という。

 「ここに私の名前が…」と、千葉県在住の大石(旧姓渡邊)宣子さん(77)が指をさした。謄本の様式は昭和時代まで続いた手書きの縦書き。住所は当時の「台北市大安字龍安坡四百七十五番地」とある。

 大石さんは昭和二十一年の引き揚げで、当時四歳。昭和町の記憶はほとんど無い。あるのは引き揚げ船の記憶。「船内は荷物でいっぱい。歩くとぶつかって痛かった。バケツでご飯を配っていたけれど、ある時、転んでこぼれて、それを元兵隊さんが手ですくって食べていた」と思い返す。

 湾生代表であいさつした新元(にいもと)久さん(87)=兵庫県在住=の脳裏に強く残っているのは中学二年の時のこと。「生徒総出で淡水河岸に行き、地下壕(ごう)を掘っていたら米軍機が飛んで来て爆撃された」。幸い皆、避難し、無事だったが、それが五月三十一日の台北大空襲。総督府は燃え、市民三千人が死んだとされる。

 贈呈式を主催した台湾故郷文史協会の理事長、黄智慧(こうちえ)さんは「湾生のみなさんには住んでいた家に心残りがあるでしょう。その心残りに少しでもお応えしたいと戸籍謄本を探した」という。協会は今後も昭和町の家屋を含む文化の保存活動を続ける。

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