東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 国際 > 紙面から > 8月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【国際】

<米国民として 日系人と戦争>(4)名誉回復 差別撤廃 法整備に奔走

7月下旬、ワイオミング州パーク郡で行われたハートマウンテン強制収容所の関連行事で、ボーイスカウトの思い出などを語るシンプソン氏(左)とミネタ氏=岩田仲弘撮影

写真

 戦後、米国内に差別意識が色濃く残る中、多くの日系人は強制収容の実態について進んで語ろうとはしなかった。転機は一九六〇年代に訪れる。公民権運動の盛り上がりに伴い、人権団体「日系米国人市民連盟」(JACL)が中心となり、米政府に人種差別に対する謝罪と賠償を求める運動が活発に。七四年に民主党から下院議員に立候補して当選したノーマン・ミネタ(87)は法整備に奔走した。

 法案成立には共和党の協力が不可欠で、ミネタの幼なじみ、ワイオミング州選出の共和党上院議員アラン・シンプソン(87)が尽力した。ミネタは、同州ハートマウンテン強制収容所に抑留中、ボーイスカウトの一員として慰問したシンプソンと初めて会った。

 「一緒にテントを張って、周りに雨水を流す溝を掘っていたら、アランが『坂下のテントにいじめっ子がいるから、そっちに水が落ちるようにしてくれ』って言うんだ。その通りにしたら雨が降ってきて、水の勢いで下のテントが倒れて大喜びしてたよ」(ミネタ)

 当時生存していた元収容者に一人当たり二万ドル(当時の換算レートで約二百七十万円)の賠償と政府の公式謝罪を求めた法案に共和党保守派が反発。シンプソンは「俺は実際に収容所に行って、その苦労を知っているんだ」と説得を重ねた。

 第二次世界大戦中、欧州戦線での激闘で知られる日系二世の部隊、第四四二連隊にちなみ「四四二号」と名付けられた法案は八七年九月に可決。翌年八月、大統領ロナルド・レーガンが署名して「市民の自由法」として成立した。レーガンは「われわれはここに過ちを認める。国家として法の下の平等に対する責任を再確認する」と述べた。

 その十三年後、米国がその責任を試される時が来た。二〇〇一年九月十一日、米中枢同時テロが発生。ミネタはジョージ・ブッシュ(子)政権の運輸長官として危機管理に追われた。

 テロ直後に上下両院の与野党幹部を招いたホワイトハウスの会議で、ミシガン州選出の下院議員がブッシュに人種差別に対する地元の懸念を伝えた。

 「大統領、ミシガンにはアラブ系やイスラム教徒が多く、事件を機に(飛行機の搭乗など)交通手段の利用を禁止されるのではないか、一斉検挙されないか心配しています」

 実際に国内では、アラブ系市民に対する嫌がらせが相次いでいた。

 「私たちも懸念している。一九四二年にノーム(ミネタの愛称)の身に起きたことが再び起きないよう、今ここで確かめておきたい」。ブッシュが突然、日系人の強制収容に言及した。ミネタは驚き、心の中で「YES!」と叫んだ。

 ミネタはその直後、空港での保安検査の際、人種で疑わしい人間を選別する「人種プロファイリング」に反対する声明を発表。保守層などから激しい批判を浴びたが、導入を頑として認めなかった。=敬称略 (アメリカ総局・岩田仲弘)

1988年8月10日、「市民の自由法」に署名するレーガン大統領。左から2人目がミネタ下院議員=レーガン記念図書館提供、共同

写真
 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報