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【国際】

明治の皇居、明らかに オーストリアで見取り図発見

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 一八六九(明治二)年に明治天皇の住まい「皇城」(旧江戸城西丸)でオーストリア・ハンガリー帝国使節団が天皇と謁見(えっけん)した際、詳細な見取り図を作成していたことが分かった。見取り図は手記と共にオーストリアで保存されていた。皇城は七三年に火災に遭い、皇城に関する文書なども焼失。元宮内庁書陵部編修課長の岩壁義光氏は「当時の記録として、謁見の場所を具体的に描いた視覚的な史料は見たことがなく、一級の史料だ」としている。

 見取り図と手記はリンツ市司教区文書館にあり、同市郊外シュタイレック城の宮田奈奈研究員とドイツ・ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調査で確認した。手記には謁見四日後のピアノ御前演奏の様子も描かれ、明治天皇の素顔の一端がうかがえる。

 皇城は二重橋(正門鉄橋)に近い現在の宮殿の南側にあった。見取り図は、皇城の玄関から謁見に使われた大広間(手記によると五百平方フィート=約四十六平方メートル)を描写。天皇が謁見時に用いた御帳台や雅楽奏者、グランドピアノなど贈り物の位置のほか、使節団が茶菓の接待を受けた殿上の間も描かれていた。

 学習院大史料館の客員研究員を務める岩壁氏によると、皇城の火災で七三年までの主な公文書の原本はほぼ残っていない。見取り図について「大広間など西丸の儀礼空間を謁見にうまく活用した様子がよく分かる。外国との交流史の隠れた一面が浮き彫りになる」としている。

オーストリア・ハンガリー帝国皇帝が明治天皇の皇后に贈ったグランドピアノのスケッチ=ドイツ・ボン大のパンツァー名誉教授提供・共同

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 見取り図と手記を記したのは、日本と修好通商航海条約を締結するため六九年に来日したオーストリア・ハンガリー帝国東アジア遠征隊の三等書記官オイゲン・フォン・ランゾネ男爵。

 手記や日本側の外交史料「墺地利使節参朝並条約調印一件」によると、使節団は公使アントン・フォン・ペッツ男爵を全権代表とし、十月十六日に皇城で当時十六歳の天皇に謁見。ランゾネは、すだれである御翠簾(ごすいれん)で顔を隠した天皇が使節団のお辞儀に答礼するため身をかがめて立ち上がった際「若々しいお顔を拝見する機会にあずかった」とも記した。 (共同)

<皇城> 旧江戸城西丸で、明治初期に皇居となった。1868年10月、明治天皇が京都から江戸城に入り、東京城に改称。いったん京都へ戻った後、69年3月に再び東京城に入り、皇城と改称した。太政官のほか、民部、大蔵、外務、兵部、刑部の各省などが置かれた。73年5月、火災に遭い、その後赤坂離宮が仮皇居と定められた。88年10月、皇城跡に明治宮殿が完成し、宮城と改称された。 (共同)

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