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【国際】

<ベスランの傷跡>(上)新たな命、生きる希望に 娘が犠牲に 死願う母に起こった奇跡

ロシア南部ベスランで保存された事件現場の体育館。バスケットボールコート1面分のスペースに、1100人以上が監禁された

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 チェチェン共和国独立を求める武装勢力に多数の子どもが人質にとられ、三百三十人以上の犠牲者を出したロシア・北オセチア共和国ベスランの学校占拠事件から今月で十五年。事件は「ロシアの9・11」ともなぞらえられ、国のあり方さえ変えた。わが子を失った母、生き残った子どもたちが癒えぬ傷を抱え、生きる軌跡を追った。 (ベスランで、栗田晃、写真も)

 横たわる多くの亡きがらの中、娘と確信させたのは、くるぶしだった。二〇〇四年九月四日、アレフチナ・クソワさん(50)はベスラン市内の遺体安置所にいた。痛ましく変わり果てた上半身では判別できなかったが、「骨が少し突き出た足が、あの子に間違いなかった」。歯科医師を目指す十四歳の娘の未来が絶たれたと実感し、泣き崩れた。

 ロシアで新学年が始まる九月一日朝、正装した子どもや親たちで華やいだベスラン第一学校を武装勢力が占拠した。一家は二年前、モスクワに移り、娘アンジェラさんはこの学校の生徒ではなかった。夏休みを祖母の家で過ごし、「友達に会いたい」と学校に顔を出し、人質になった。

アンジェラさん=家族提供

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 千百人以上が押し込められたバスケットボールのコート一面分の狭い体育館。覆面の男たちは抵抗した男性を射殺し、子どもたちが騒ぐと天井に発砲した。窓越しの抜けるような青空は、絶望の色に変わった。

 アレフチナさんが駆けつけたのは翌日。飲まず食わずで立ち尽くし、解放の時を待ったが、生きた姿で対面はかなわなかった。「もし、早くモスクワに帰るように言っていたら」「もし、私が一緒にいたら」。アレフチナさんの頭には、いくつもの「もし」が渦巻いた。「子どもと一緒に死ねた母親は幸せ」。犠牲者の集団墓地で、親子並んだ遺影がうらやましかった。

 「あの子の元へ行きたい」。それだけを願って過ごす毎日の中、事件の起きた年の暮れの出来事を、アレフチナさんは「信じてもらえないかもしれないけど」と切り出した。「神様の声が聞こえたんです。『生きる意味を与えよう。また娘が生まれてくる』と」。翌年、新たな命が宿った。

 〇六年一月、氷点下三〇度のモスクワで、予定日から一週間遅れて女の子の産声を聞いた。くしくも亡くなったアンジェラさんの誕生日だった。

 「アンゲリナ」と名付けられ、姉によく似た少女は五歳になったころ、「姉さんのことを知りたい」と聞いてきた。事件のことを伝え、その後、現場にも一緒に足を運ぶようになった。

亡くなったアンジェラさんについて語る母のアレフチナさん(左)と妹のアンゲリナさん

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 犠牲になった子どもは百八十六人。十五年が過ぎても、母親たちの傷は癒えない。自らも人質となり、二人の子を亡くした母親(59)は現場の校舎を訪れると、いまも動けなくなる。「足元が、無数の遺体を踏み越えて脱出したあの日の軟らかい感触のままなんです」

 遺族の中には、治安当局が犯行の兆候を見逃したという不信感が根深い。再調査の要求に、政府がかたくなに応じないことも、時計の針を先へと進ませない。

 今年の夏、アレフチナさんは娘の希望でベスランに戻ってきた。姉の年に近づいたアンゲリナさんは「この街だと落ち着くし、ここで生まれた気がするの」と話す。過去は消えないが、暮らしは今日も続いていく。

<ベスラン学校占拠事件> 2004年9月1日朝、ロシア南部の北オセチア共和国ベスランの学校(日本の小・中・高校を合わせた施設)に、チェチェン共和国の独立を求める武装勢力32人が侵入。体育館に子どもや教師、保護者ら1128人を人質として立てこもり、ロシア軍のチェチェン撤退などを要求した。3日昼すぎに体育館で起きた爆発を機に、特殊部隊が突入。犯行グループは1人を除いて殺害されたが、子ども186人を含む334人が犠牲になった。ベスランの人口は約3万5000人。

 

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